正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十四

 岩波文庫105ページ「しるべし、この疎怠(そたい)は癈(はい)せるによりてなり。諸方の粥飯頭、すべて仏性といふ道得(どうて)を、一生いはずしてやみぬるもあり」
 知らなければいけない。このように仏道と疎遠でそれで平気で怠けているのは、頭がどうかしてしまっているのだ。方々の寺の住職たちが仏性について語るということを全くせずに一生を終わるということもある。
 私自身体調が中々すぐれなかったり、この先死ぬまでの間に何をすべきか頭をひねったり、色々あるけれど坐禅正法眼蔵を読むことだけは何とか続けている。
 人間って生きている以上、目の前の現実に瞬間瞬間一生懸命対応しているものだと思う。そうしないのは「癈せる」どこかおかしくなってしまっているのだと思う。
上っ面の言葉はもういい。何かちょっと起こると、この世の一大事とばかり大騒ぎし、しばらくすると、あの騒ぎはなんだったの?ということばかり。
 アメリカ、中国は国益と今後の勢力を巡って戦っている。人類は国という単位で、その利益を守るというレベルにいる。軍事力、経済力を背景に。アメリカは、自国の脅威だと判断したイランの人間を攻撃して殺している。現実に軍事力は行使されている。中国も軍事予算を大きく伸ばしている。それが、現実だ。それをいいと言っているのではない。けれど、その現実を徹底的に見据えて、具体的な現実的な対策、それも超長期的な対策が今はないのではないか?理想論はきちんと持った上で現実論を作らないとだめなんだろう。
 仏教は役に立つと思うけどねえ。
 でも、ここに引用したように、僧侶が仏道を語れなくてどうする、という状況は道元禅師の時代にすでにあったようだ。
 仏教は現代を救えると思うけど、今の仏教界はどうなのかなぁ?