正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その四十一

 岩波文庫84ページ「五祖いはく、「是仏性(ぜぶっしょう)」。いはくの宗旨(そうし)は、是(ぜ)は仏性なりとなり。何(か)のゆゑに仏なるなり。是(ぜ)は何姓のみに究取(きゅうしゅ)しきたらんや、是すでに不是のとき仏姓(ぶっしょう)なり」
 五祖が「是仏性」と言われたのは、現実の絶対的存在のことを仏性ということである。そして現実の絶対的存在、真理、真実は言葉では言い表せない「何」なので、とりあえず「仏」という言葉を使っている。仏とは言葉では言い表せない「何」なので仏としているのだ。現実の絶対的存在「是」は「何姓」であるということだけで済ますことはできない。「是」だとか「不是」だとか、そんなことと関係ないのが「仏性」現実の絶対的存在だ。
 仏性の巻では、仏性を頭の中の観念ではなく、現実の存在、事実なのだ、と道元禅師は説いておられると私は思っている。
 現実に対してどう生きていくかに応えられないのなら仏教の価値はない。悟りを開くとか神通力を身に付けるとか、現実離れした、現実を回避するようなことに何の意味があるのだろう。普通の生活をするということは、極めて難しい。そのことが「普通」にできるようにするのが仏教の価値だと思っている。
 今「普通」を見失ってしまっているのではないかなと思う。
 会社の経営のトップが何億円、何十億円という報酬を得るとか、政治家や官僚が利権を漁るとか、天下りを繰り返して報酬と退職金を何回も貰うとか、「普通」ではないと思うけどね。本人は「自分はそれだけの能力もあり、成果もあげているんじゃ!」と言うかもしれないが、ものには程というものがあるでしょう。
 坐禅して、正法眼蔵読んでいれば、「普通」ではない、おかしいとわかるというか、最初からそんなことはしない、いや、できない。
 私は、今の世界が良い方向に行っているとは、どうも思えない。一方で極端な観念論、一方で極端な利益追求となってやしないだろうか。もちろん、地道に毎日こつこつ生きておられる方もたくさんいらっしゃるけど。しかし、世界全体でどこに向かおうとしているのだろうか。国益、私益が強すぎないだろうか。また、その反動なのか、過激な観念論を振り回している人たちもいるように見える。
 みんな坐禅しないですかねぇ。そして本来の面目に立ち返ってもらえないですかねぇ。無理かなあ。