正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三十

 岩波文庫79ページ「しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり。あるいは其理自彰(ごりじしょう)なり。おほよそ時節の若至せざる時節いまだあらず、仏性の現前せざる仏性あらざるなり。」
 現実にこの世界は存在しているのだから、仏性も現実に目の前に存在している。現実に存在しているのだからその理屈、理由など考えるまでもなく彰(あきら)か。仏性が存在しないなどというときはあり得ないし、現実に存在しない仏性もあり得ない。
 道元禅師は、仏性は神秘的、観念的なものではない、現実、現在の瞬間のことと説かれている。
 正法眼蔵は、このように現実を説いているところに価値があると考えている。
 瞬間瞬間、楽しいこと、不愉快なこと、苦しいこと、次から次へと起こる。その中で生きていくというのは容易ではない。私は、度々うんざりする。こんなことをいつまで続けていかなきゃいけないんだ、と思うこともある。
 そのたびに、坐禅に立ち返って、現実とどう向き合っていくか、どのように行動するか、を坐禅によって対応しているつもりだ。世間や組織の評価は関係ない。
 現実をよく見るというのは、実際にはとても難しい。私は坐禅なしに出来るとは思えない。
 人間は観念とか思想に支配されて現実を無視したことをしがちだと感じる。本来やってはいけないこともやってしまう。歴史を見ても、その繰り返し。
 イギリスがEUから独立するという。アメリカもアメリカ第一主義だそうだ。グローバル化というのが進んできて、その反動が起こっているように感じる。私は専門家ではないから、よくわからないが。
 地球というちっぽけな星の上で人類も含めた全生命が
存在し続けようとするなら、グローバル化は避けられないんじゃないかと感じるけど、これまでの国の慣習、思想、宗教、経済の運営を変えるとなると、嫌だと思う人がいるのも当然だろう。自らの思想が正しいと考えている人たち同士が、いきなり上手くいくとは思えない。
 時間が必要だろうし、そして何より坐禅が必要だ。