正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性そのニ十九

 岩波文庫79ページ「しるべし、「時節若至」は、十二時中不空過(じゅうにじちゅうふくうか)なり。「若至」は「既至」といはんがごとし。時節若至(じせつにゃくし)すれば仏性不至(ぶっしょうふし)なり」
 「時節若至」というのは、毎日を虚しく、無駄に過ごさないということである、つまり、今この瞬間を虚しく過ごさない(坐禅を基本にして過ごす)ということ。そういうことであるから「若至(もし至れば)」は「既至(既に至っている)」ということと同じ。だから「時節若至」(今この瞬間)となれば、「仏性不至」ということになる。「仏性不至」について、西嶋氏は「時節若至と考えているようでは仏性が至ることはない」とされている。水野氏の脚注では「仏性が来たと言うに及ばない」とされている。
 私は、今この瞬間に生きているしかないのだから、至る至らないとか言葉を費やしても意味はない、ということでいいのではないかと思っている。
 しつこいようだが、この仏性の巻で道元禅師は、仏性は観念ではない、また、修行の末、到達するものではないと繰り返しおっしゃっている。毎日毎日瞬間瞬間をきちんと生きろ、とおっしゃっている。
 私もいつ死ぬかわからない。坐禅に従って生きていくしかない。アクシデントに巻き込まれて突然死ぬかもしれないし、病に侵されて死んでいくかもしれない。けど、考えて見たところで、どうしようもない。今この瞬間を生きるだけだ。
 今、国は、元気に長生きして働きましょうと言っている。正直、余計なお世話だと思っている。財政上の問題をもっともらしく、耳障りの良い言葉で言っているだけのこと。
 個人レベルでは「生きるとは何か」を一人一人が腹に据えるしかないし、国家レベルでは、厳然とある「格差」をいかに合理的に解消するかだと思っている。
 メディアで「セレブ」とかいって、間抜けな人々を紹介してるけど、あんなものを羨ましいと思っている人が多いから、盛んに取り上げるのだろうね。正直、情けない世の中と思う。
 いかに生きるか、坐禅してくださいな。