正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十一

 岩波文庫125ページ「無始劫来(むしこうらい)は、癡人(ちにん)おほく識神を認じて仏性とせり、本来人とせる、笑殺人(しょうしゃじん)なり」

 始めも知れぬ遠い昔から、多くの愚かな人たちは精神的な働き、意識を仏性だとし、本来の人間のあり方としてきたのは、笑い話、笑うしかないことである。

 仏性の巻も最後に近くなってきた。道元禅師は、改めて仏性は頭の中の抽象的・観念的なものではない、とおっしゃている。

 世の中を見渡すと、いかに人間は頭の中の概念に振り回されていることかと思う。

 言葉の上の論争、ディベートとかいうのかな、そんなことに時間を費やしてないで、現実の今の瞬間瞬間に行動したらどうかと思う。理想はその行動の積み重ねの上にしかないのだから。

 一切衆生=悉有=仏性、すべての存在は仏性。けれど、坐禅しなければそれは現れない。

 私も平和を願う者である。けれど、核武装に邁進している国があり、軍事力を増強している国々があるのも厳然たる事実。平和を唱えることは重要だ。けれど、今の人類は軍事力なしに国家を維持できないレベルである事実も認めなきゃいけないと思う。

 軍事力というのは、いかにたくさんの人を殺せるか、国土を破壊することができるか、という力であって、そんなものを競いあって増強しているというのは、正気の沙汰ではないだろう。

 しかし、現実には軍事力を備えなきゃ、他国の言いなり、支配下に置かれてしまう、それは受け入れられないから、軍事力を備えなきゃならないんだろう。

 軍事力なしに国家を維持できる世界はどうすればできるのだろう。その具体的、緻密な道筋は聞いたことがない。平和を唱えると同時に具体的な道筋を考えなきゃいけないと思うけど、そのためには今の世界ではまだまだ、途轍もない時間が必要な気がする。

 すべての存在は仏性であり、仏性であることが本来のあり方。その状態では、人間は人を殺すなんてことはできない。

 だから坐禅して本来の面目、仏性に立ち返って欲しいと思う。けど、トランプだとか習近平とか金正恩坐禅なんかしないだろうなぁ。