正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十一

 岩波文庫113ページ「いはゆる「定慧等学(じょうえとうがく)」の宗旨(そうし)は、定学(じょうがく)の慧学(えがく)をさへざれば、等学するところに明見仏性(みょうけんぶっしょう)のあるにはあらず、明見仏性のところに、定慧等学の学あるなり。「此理如何(しりしゅお)」と道取するなり」
 「定慧等学」とはどういうことを言っているのかと言うと、心身をバランスさせること(定)を学ぶことは、智恵を学ぶことの妨げにならないから、それらを学ぶことによって仏性が現れるということを言っているのではない。我々も含めすべての存在は仏性であることから(すでに仏性は現れている 見=現)、定慧等学を学ぶことができるのである。この理由は言葉では言い表せないが絶対の事実(此理如何)である。
 私なりの理解は、定慧等学=明見仏性=此理如何というもの。一切衆生=悉有=仏性なのだから上のような理解で良いと思っている。
 私たちは本来、仏なのだ。坐禅した瞬間、仏となる。その時、心身はバランスし智恵を発揮できる。智恵とは直感的判断。現実の世界では瞬間瞬間判断しなければならない。智恵は直感的で、かつ誤ることはない。仏なのだから。
 世間的に成功していようと、肩書きが立派であろうと、学歴があろうと、心身がバランスし智恵がない、つまり仏でなければ、人間としては駄目だ。
 この前も書いたけど、人間の価値基準は自分の内側にある、それはバランスした心身で智恵を発揮できているということだと考えている。
 政治家とか組織のトップに智恵がなければ、社会も組織も悲惨だ。
 一方で、社会の人々も心身がバランスして智恵が発揮できていないなら、社会が良くなるはずがない。
 卑近な例だけど、芸人が不倫して、それも多目的トイレを使って怪しげな振る舞いをしたという。理屈では、やってはいけないと簡単に言える。本人だって悪いことだと分かっているから、ばれないように、人気のない多目的トイレを探したんだろうね。健気なものだと思う。だけど、ばれなきゃいいという時点でどうしようもない。悪はどうやったって悪でしかない。それを防ぐのは心身のバランス、智恵しかない。坐禅するしかない。
 心身がバランスしていれば、現実、事実がよく見える。今の地球人類は事実がきちんと見えているようには思えないけど、大丈夫ですかね?自国の利益、覇権争い・・・。まあ、今の人類のレベルでは軍事力、経済力で戦うしかないのだろうけどね。最悪の事態になることを避ける分別はあることを祈るばかりだ。
 坐禅してくれないですかねぇ。