正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十ニ

 岩波文庫113ページ「たとへば、「明見仏性はたれが所作なるぞ」と道取せんもおなじかるべし。「仏性等学、明見仏性、此理如何」と道取せんも道得(どうて)なり」
 (前回を受けて)明見仏性、明々白々として仏性が現れるということは、言葉の上でのことではない、行動である。誰の行動かと言えば、この世界一人一人の行動である。仏性とは何かを学ぶこと=明見仏性=此理如何である。
 行動がすべてだ。理想を持つのは大事だ(主観)。現実をよく見るのも大事だ(客観)。しかし、頭の中に留まっているのでは、大宇宙の真理に行き着くことはできない。行動だ。「たれが所作なるぞ」なのだ。
 コロナの感染を完全に防ぐことは不可能。しかし、経済活動を止めれば社会がもたない。では、どう行動するかということになるのだろう。リスクの高い行動を取るのは控える方がいいんでしょうね。。ホストクラブだとか、クラブだとか、リスクは高いと思うけどね。ただ、そこで働いて生活している人たちもいるし、どうしても行きたいという人もいるんだろうし、それを権力、法律で抑え込むというのもレベルが低いと思う。
 普通に生活していても、人との接触は不可避だから、職場クラスターとやらも出て当然だろう。リスクをどの程度下げられるかは、最終的には一人一人の行動にかかっているのだろう。
 身も蓋もないことを言うようだけど、人間は必ず死ぬ。次の瞬間死ぬことも十分あり得る。だから、今の瞬間を一生懸命に生きるしかない。そう思っている。コロナの今の状況はある意味で特別なことではない。当たり前のことをコロナによって、意識しただけと言えると思っている。
 結局、瞬間瞬間の行動に尽きる。道に食べかけのものが捨てられているのを見たりするけど、こういう行動を取る人たちがいる社会は駄目だなあと思う。平気で捨てる人間は、そのような生活態度でいる限り、因果の法則でろくなことにはならない。道にゴミ捨てるけどコロナを防ぐ行動を取るなんて、まあ、あり得ないでしょうね。
 ちょっと付け加えるけど、此理如何(しりしゅお)を、この理由はどのようなものか、というように読むのではないと思っている。如何とは、言葉では言い表せない何かであるが、大宇宙の真理として存在している、と解するのだと考えている。