正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十一

 岩波文庫124ページ「仏性の活計(かっけ)は、長沙の道(どう)を卜度(ぼくたく)すべし」
 一切衆生=悉有=仏性であるから、すべての存在(仏性)が活き活きと日々瞬間瞬間を生きているということについて、長沙の言葉をしずかにいろいろと考えてみなければいけない。
 毎度同じことで申し訳ないけど、今この瞬間瞬間を一生懸命行動する、生きるしかない。西嶋氏が書いておられるように、仏教には因果の法則があると同時に刹那生滅の道理というのがある。刹那生滅の道理とは瞬間瞬間変化するということで、その瞬間には人間は自由に行動できるということ。その瞬間の積み重ねが生きるということだと思う。常に生滅している。固定されたものはない。永遠にこのままということはない。それは希望と言ってもいいかもしれない。その瞬間瞬間の行動が因果の法則で色々な結果を出していくのだから。
 時々、「天に任せよ」とか「生かされている」とか言う人たちがいるけど、本人が一生懸命行動せずに誰に任せるのだろう?「生かされている」なんて他人事みたいに暢気になんかしてられない、と私は思う。
 私は、瞬間瞬間、もがきながら生きているという感じです。生きていて「安心(あんじん)」を得るなんてことが仏教の目的ではないと信じている。今この瞬間にどう行動したらよいか、それを実現するための教えが仏教であり、その方法が坐禅だと信じている。