正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十

 岩波文庫124ページ「ゆゑに長沙は蚯蚓に有仏性といはず、蚯蚓無仏性といはず。たゞ「莫妄想(ももうぞう)」と道取す、「風火未散」と道取す」
 そのため長沙禅師はみみずに仏性が有るとは言わず、仏性が無いとも言わなかった。ただ、妄想するな(頭の中でいじくり回すな)と言い、風火(西嶋氏のいう「物質的エネルギー」)が残っているのだと言ったのだ。
 みみずが二つに切れてなお動いている。これについて仏性がどうこうだという必要はない。このあと、さらに道元禅師は仏性について解説をされていく。
 妄想するな(莫妄想)というのは好きな言葉。元々人と接するのは苦手で、他人の言葉が鬱陶しく感じることが多い人間だったが、最近その傾向がどんどんひどくなる。まともなことを言う人もいないことはないけど、妄想としか言えない、訳のわからん、どうでもいいことを言う人間がやたらと増えていると感じて仕方がない。この人は現実の世界に生きているのかな?事実が見えているのかな?と思ってしまう人が多い。そういう人が得意満面に臆することなくしゃべっているのを見ると、正直いらいらしてしまう。いかんいかんと自戒するけど。
 知識や言葉は大事だけど、ちょっと偏重しすぎじゃないかな、と思う。
 毎回同じことしか書かないけど、人間の価値は今この瞬間の行動で決まる。これまでいいことをしてきたって、今悪いことすれば、悪人でしかない。
 話は変わるけど、役者さんの自殺が続いてるそうな。それぞれ色んなことがあるのだろうし、本人しかわからないことなのだろう。
 生死はいかんともしがたい。生きたい生きたいと思っていても不慮の事故で死んでしまったりもする。
 ただ、私個人は、本来人間って自然に死を待つものじゃないかと思っている。私自身、死んでしまった方が楽だと思うときはいくらもあった。でも、坐禅していると「あ、今は死ななくていいな」と感じるので死ななかった。死を選ばねばならない時もないとはいえないとは思う。一方で、ほとんどの場合、坐禅していると、ほかにやり様がある(今はひたすら耐え凌ぐということも含め)と感じるのではないかな。少なくとも私はそうでした。