正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 古仏心その一

 岩波文庫199ページ「祖宗(そそう)の嗣法(しほう)するところ、七仏より曹谿(そうけい)にいたるまで四十祖なり。曹谿より七仏にいたるまで四十仏なり。七仏ともに向上向下(こうじょうこうげ)の功徳(くどく)あるがゆゑに、曹谿にいたり七仏にいたる。曹谿に向上向下の功徳あるがゆゑに、七仏より祖々正伝し、曹谿より祖々正伝し、後仏(ごぶつ)に正伝す。」

 仏教を伝えているのは、釈尊以前の七仏から中国の大鑑慧能禅師までの四十人の仏祖がおられる。大鑑慧能禅師から遡れば四十人の仏祖がおられる。七仏は上にも下にも法を伝えるものであるから、大鑑慧能禅師に至るし、過去七仏にも至る。大鑑慧能禅師は上にも下にも法を伝えるものであるから、過去七仏から正しく法を伝えられ、大鑑慧能禅師から過去七仏に法を伝え、また大鑑慧能禅師以降にも法を伝えるのである。

 真の仏教、大宇宙の真実・真理は絶対的であって、時代や時間によって変わることは絶対にない。だから、過去七仏も大鑑慧能禅師もそれ以降の仏と言われる方々も、大宇宙の真実・真理という点でまったく変わることはない。皆同一なのだ。

 ここはそういうことだと思っている。

 人間の世界を見ていると、その時々で「正しさ」はどんどん変わっていく。過去正しいと信じられていたものが、突然悪になる。

 今現在「正しい」と言われているものが、本当に正しいのか、どうも非常に怪しいと思う。

 利益に囚われ、知識に囚われ、権力に囚われ、人間は「正しさ」つまり大宇宙の真実・真理を見失う。

 知識も坐禅して大宇宙の真実・真理と一体とならない限り正しく使うことはできない。

 とかくこの世では、過去高い地位にあったということで、偉い人だと思われたり、自分で偉いと思ったりしている。

 けど過去がどうであれ今この瞬間に何をしているかしか人間の価値を決めるものはない。今、くだらないことしているのなら、その人間はくだらない人間でしかない。過去なんて関係ない。

 元首相が他党の関係者をヒトラーと呼んだとかで揉めてるらしい。「暴走老人」なんて見出しもあった。実際のところはどうなのか知らないけど、元首相だからどのこうのっていうのはどうなんだろう?過去の肩書がものを言うっていう世界は嫌だなと思う。今現在の言動のみをもって評価しないといけない。

 そして正しく評価するためには坐禅して大宇宙の真実・真理と一体となっていなければいけない。

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その十六

 心不可得の巻は前回で終わり。

 心不可得というのは「心というものは捕まえることができない」というようなことだろう。

 では「心」って何だろう?ということになる。

 自分の外に「もの」があって、自分の中に「心」があるということではないと思っている。

 今この瞬間に一生懸命行動している状態、自分が現実の世界の中と取っ組み合っている状態、それが「心」というものなんだと思っている。

 「心」というのは悠長に頭の中で考えるものじゃない。「心」というものだけが存在するということはない。そう考えている。

 仏教は人間が現実の世界で生きていく方法を教えるものだと思っている。そしてそれは坐禅して大宇宙の真実・真理と一体となることによって可能となる。

 脳味噌はある意味で優秀だから、いろんなことを思いつく。考え出す。そして信じる。それは必要なことだけれど、その脳味噌の働きが正しいかどうか、それが問題だ。

 坐禅することによって、脳味噌は誤った動きはしない。誤った考えの呪縛から解放される。

 石原慎太郎さんが死んで、社民党の副党首やら何人かが彼を非難するコメントを出した。

 死んだ人間を非難するのは如何なものかという意見もある。心情的には私もそう感じる。

 ただそれよりも強く思うことは、非難している人たちの狭量さ、不寛容さだ。自分の脳味噌に囚われ、憑りつかれていて、それに反する考えの人間を徹底的に攻撃する。死者であろうと非難し続ける。正直、これは偏執的で気味が悪い。恐ろしい。

 こういう人は、自分と同じ考えの人ばかりの社会、単一の思想の社会を理想として目指そうとしているとしか思えない。それ以外を排撃する。怖い怖い。

 私はそれは異常な世界だと思う。

 坐禅して本来の面目に戻りましょう。大宇宙の真実・真理と一体になりましょう。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その十五

 岩波文庫198ページ「しかあれば、参学の雲水、かならず勤学(きんがく)なるべし、容易にせしは不是(ふし)なり、勤学なりしは仏祖なり。おほよそ心不可得とは、画餅(わひん)一枚を買弄(まいろう)して、一口に咬著嚼尽(こうじゃしゃくじん)するをいふ。」

 そういうことであるから、仏道を学ぼうという者たちは、必ず真実・真理を得るためにずっと一生懸命に学ばなければいけない。これぐらいで十分だなどと安易にしてはいけない。真実・真理を得るためにずっと一生懸命に学ぶ者は仏祖である。心不可得とはどういうことかを大まかに言えば、絵に描いた餅を買って一口にむしゃむしゃ食ってしまうことを言うのだ。

 坐禅をして悟るというようなことを言う。坐禅のゴールが悟りみたいに言うことがある。

 しかしそれは間違いだ。人間が生きるのにゴールなんてない。悟りなんてものがころっとある訳がない。

 仏向上という言葉がある。たとえ大宇宙の真理と一体となりえたとしても(仏といわれるような状態になったとしても)常にさらに向上しようとし続けなければならないということだ。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となったとしてもその状態を維持するためには毎日坐禅をし続けなければならない。坐禅しなければその状態は保てないのだ。このことが「勤学」だ。

 「容易にせし」というのは徳山が「俺は金剛経を究めた。金剛王だ」などと浅はかに考えたり、大したこともしていないことを言っていると思う。

 とにかく仏向上のためひたすら毎日坐禅し、経典を研究する、毎日の生活を一生懸命に行う、これが重要だ。というかこれしかない。

 心不可得とは何かなどと頭の中で考えをいじくりまわしても何にもならない。そんな暇があるなら、絵に描いた餅を一口に食ってしまえ、つまり日常生活を一生懸命に生きろ、ということ。

 生きるというのは瞬間瞬間を必死に行動するということだ。

 世界をみてもウクライナを巡ってロシアと欧米は緊張状態にあるし、中国と台湾だって同じようなものだ。

 日本という国が安泰に過ごせるかどうかは、瞬間瞬間の行動にかかっている。もちろん政府がきちんとしなければならないが、人間一人一人が日常生活を普通に一生懸命生きていることが大前提だ。

 野党もしっかりして欲しい。立憲民主党は「批判ばかり」と言われることに対し「自民党が批判されるようなことばかりするからだ」とか「マスコミが一部を切り取って報道するから批判ばかりというイメージができた」とか他人のせいにしているけれど、実に情けない。

 党としての言動が評価されていないということでしかないだろう。批判ばかりだとしても、その批判が国民に「なるほど、もっともだ」と支持されるようなものであれば問題ないだろう。支持されていないことをよくよく考えなきゃ駄目でしょう。政党支持率なんて10%程度しかないんだから。

 現実が見えなきゃどうしようもない。

 坐禅しましょう。

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その十四

 岩波文庫197ページ「おほよそ徳山それよりのちも、させる発明ありともみえず、たゞあらあらしき造次(ぞうじ)のみなり。ひさしく龍潭にとぶらひせば頭角触折(とうかくしょくせつ)することもあらまし、頷珠(がんしゅ)を正伝する時節にもあはまし。わづかに吹滅紙燭(すいめつしそく)をみる、伝燈に不足なり。」

 おおよそ徳山禅師はこのエピソードの後もこれといって仏道を明らかにしたとも見えない。ただ乱暴な振舞いだけが伝わっている。長く龍潭禅師に学んでいれば、龍潭禅師の仏道の真髄(龍の角)に触れて仏道を体得できであろうし、龍の顎の下にあるという珠(龍潭禅師の仏道の真髄)を受け継ぐときにも出会っただろう。わずかに「吹滅紙燭」のエピソードだけが伝わっているが、これでは仏道を伝える(伝燈)には不足である。

 「臨済の喝、徳山の棒」といって、徳山禅師は弟子を棒で殴ったらしい。弟子を厳しく指導したと取る人もいるかもしれないが、道元禅師は評価しておられない。

 道元禅師は正法眼蔵の中で非常に厳しく先人たちを批評される。ここの箇所は徳山禅師は仏教を真に理解していないとされている。

 仏教というのは普通の人が普通に日常生活を送れるようにするものと思っている。普通=大宇宙の真理と一体となって行動する、ということだ。

 体罰なんていうものは極めて不自然なものだ。もちろん例外中の例外ということはあるかもしれないが、体罰がなければ伝わらないなんてものは偽物だ。

 普通のことが普通にできるというのは、しかし非常に難しい。

 石原伸晃氏が内閣官房参与を辞任したという。コロナの雇用調整助成金を代表をしていた自民党支部が受け取っていたからだそうだ。政治家がこんなもの受け取ったら騒ぎになるに決まってる。コロナの助成金貰って政治活動するって変に決まってる。こういうことがわからないんじゃ困る。もっとも本人が知らない間に事務方がやってたのかもしれないけどね。

 しかしそうだとしても、こういうことさせないように治めるというのが政治家の力量じゃないんだろうか。普通にできるのが力量というものだろう。

 そのためには、坐禅するしかない。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その十三

 岩波文庫197ページ「かくのごとくいはんに、徳山いふことあらばよし、いふことなからんには、婆子さらに徳山のためにいふべし。たゞ払袖(ほっしゅう)してさる、そでのなかに蜂(はち)ありともおぼえず。徳山も、「われはいふことあたはず、老婆わがためにいふべし」ともいはず。

 しかあれば、いふべきをいはざるのみならず、とふべきをもとはず。あはれむべし、婆子・徳山、過去心・未来心、問著・道著(もんじゃ・どうじゃ)、未来心不可得なるのみなり。」

 (婆さんが)こう言ったことに対して、徳山禅師が何か言うことがあれば良い、言うことができなかったら婆さんは徳山禅師のために言ってやるがよろしい。それなのにただ袖を払って去ってしまったというのではだめだ、袖の中に蜂がいた訳でもあるまいに。徳山禅師も「自分は言うことができない。婆さん私のために何か言ってくれ」とも言っていない。

 そういうことであるから、言ううべきことを言わないだけではなく、質問すべきことも質問していない。あわれなことだ、婆さんも徳山禅師も過去心も未来心も問うことも言うことも、未だ来ていない状態で自分のものになっていないのである。

 よく禅問答という。訳のわからないことを言ってなんだかすごいことのように見せかけていることをそう言うと思っている。

 しかし、上に書いてあるように道元禅師が書いておられることは、ごく普通のこと、当然のことだ。

 知っているならわかっているなら教えてあげればいい。わからないなら聞けばいい。そういうごく普通の当然のことをしないのはだめだとおっしゃっている。

 仏教は日常生活を普通に生きていけるようにするものだと思っている。普通というのは大宇宙の真理に従っていくということだ。

 それなのに仏教をやたらと難解に見せかけたり、神秘的な超常的なことに見せたりするのは、はっきり言って詐欺の手法だ。金儲けの道具にするにはその方が都合がいい。あるいは、説いている人間が理解していないということにすぎない。

 ただ「普通に生きる」というのは、坐禅しない限り非常に難しい。

 政治の「裏金」を巡って隠し撮り(録音)したり言い争ったりしている。結局権力闘争に過ぎないとは思うけど、そもそも選挙にどのくらい何のために金がかかるのかというようなことを堂々と話せば済むことじゃないのかな?ただ胡散臭いだけのことになっている。

 日大の前理事長にしても、犯罪じゃないと思っているんだろうけど、法に抵触するかしないかという前に、現金で何千万円、何億円も手に入るって異常だと思わないのが、どうかしちゃっていると思う。そんな金があるなら学生の教育のために使うのが、教育機関の経営者がするべき唯一のことだろう。

 坐禅して普通になりましょう。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その十二

 岩波文庫196、197ページ「恁麼(いんも)いはんに、徳山さだめて擬議すべし。当恁麼時(とういんもじ)、もちひ三枚を拈じて徳山に度与(つうよ)すべし。徳山とらんと擬せんとき、婆子いふべし、「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」。

 もし又徳山展手擬取せずは、一餅(いっぴん)を拈じて徳山をうちていふべし、「無魂屍子、你莫茫然(無魂(むこん)の屍子(しし)、你(なんじ)茫然たること莫(なか)れ)」。」

 (婆さんが徳山禅師に「和尚はたゞもちひの心(しん)を点ずべからずとのみしりて、心のもちひを点ずることをしらず、心の心を点ずることをもしらず」)婆さんがこのように言えばきっと徳山禅師は何か言おうとするだろう。まさにこのような時、餅を三枚手に取って徳山禅師に与えたらよい。徳山禅師が受け取ろうとしたら婆さんは言うが良い「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」と。

 もし徳山禅師が手を伸ばして餅を受け取ろうとしないのならば、餅を一枚手に取って徳山禅師をひっぱたいて言うが良い「この腑抜け野郎、ぼうっとしてるんじゃない」と。

 餅も心も大宇宙そのものであり、これを区分して考えるのは間違い。心があって餅というものを認識するということじゃあない。現実の行動の中で餅と接触するところに心がある。

 頭の中で餅と「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という言葉をあれこれいじくり回すことに意味はない。腹が減っているなら餅をもらって食えばいいだけのことだ。餅を食っている時に「心というものを捕まえることができるか」なんてことを考えたって意味はない。ひたすら食えばよろしい。心がどうのこうの言ってる暇はない。つまり「心不可得」なのだ。

 腹が減っているなら餅をもらって食えばいいのにそれをしないのなら、腑抜け野郎と罵られても仕方がない。

 坐禅して身心がバランスして大宇宙の真理・真実と一体となっている時、自然とごく当たり前のことが普通にできるようになる。

 日常生活の中で行動するとき、物との接触が起こる。その瞬間に心が発現する。心というものがころっとした形で存在するはずがない。

 この感覚は坐禅しないとわからない。

 今の世の中、頭でっかちで頭の中の考えに引きずり回されてしまって現実が見えなくなっている人間がやたらと多いと思う。「だからどうする」という具体的な現実的な方法の提示が無くてただただ言葉ばかりだ。

 皆さん、坐禅しましょう。

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その十一

 岩波文庫196ページ「婆子もし徳山とはん、「現在心不可得、過去心不可得、未来心不可得。いまもちひをしていづれの心をか点ぜんとする」。かくのごとくとはんに、婆子すなはち徳山にむかつていふべし、「和尚はたゞもちひの心(しん)を点ずべからずとのみしりて、心のもちひを点ずることをしらず、心の心を点ずることをもしらず」。」

 もし婆さんに徳山禅師が「現在心不可得、過去心不可得、未来心不可得。いま餅をどのこころにつけようというのか」と質問したら、婆さんは徳山禅師に次のように即答すればよい。「和尚さんはただ餅を心につけることができないということだけ知っていて、心を餅につけることを知らないし、心を心につけることを知らないね。」

 婆さんが大宇宙の真理を体得しているならばこのように答えられはずだが、そのようにはしていない、だから婆さんが本当に大宇宙の真理とは何かをわかっているのかは疑問だと道元禅師は書いておられる。

 ここのところは、心と餅とは別別にとらえるものではないということなのだと思う。さらに心を心というものだと頭の中で考えることも間違いだということだと思っている。「心の心を点ずる」とは心は大宇宙そのものであり、そういう見方からすれば心を心につけることができる=すべて大宇宙そのものだ、ということだと思う。餅も心もすべて大宇宙の真実・真理そのものなのだ。

 心があるから餅というものが認識されるということではない。心も餅も大宇宙そのものであり一体として存在するのだ。

 今の世の中、二元論というか、単純な対立軸で語るのが好きなようだ。大事なのは、人間が存在するとは何か、宇宙とは何か、その上でどう生きるべきかをとらえることであって、表層的なちっぽけな脳味噌で考えるようなことに振り回されてはいけない。

 野党共闘なんてほんとに情けない。主義主張が違うから別な政党なんだろう。それが共闘するって自分で言ってて情けなく無いのだろうか。自分の党の主張では多数の支持が得られないってことじゃないか。

 与党に安定過半数を取られちゃってるのに、共闘は成果があったなんて、どうすりゃそんな風に言えるんだろうか?

 ほんとに無邪気なお子ちゃまの時代だ。

 心と餅を別々にしかみられない。根源的に餅とは?心とは?と考えられない人間ばかりじゃこの先思いやられる。

 坐禅しましょう。