正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十六

 岩波文庫155ページ「行仏の去就これ果然として仏を行ぜしむるに、仏すなはち行ぜしむ。」

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動しているその一つ一つの振る舞いが、現実に明白に仏としての行動を取らせることになるのだから、仏は仏として行動するしかないのである。

 行動するかしないか。行動が正しいか。オリンピックをやるとかやらないとか、ワクチン接種が進まないとか、緊急事態宣言を解除するとかしないとか、具体的な行動計画、根拠を具体的に示しての行動計画が示されているとは思えない。みんなでワーワー言ってるだけ。与党はけしからんと野党は言ってるけど、野党の行動計画って何なのかわからん。基本理念が違う政党が協力するとか言ってるけど、理念ってそんなに薄っぺらくて軽いものなんですかねえ。

 一人一人がリスク軽減を意識するしかないんでしょうねえ。

 しかし改めて生きるってどういうことなんでしょう。コロナが考える機会になるとも思いますが。

 考えるための前提は坐禅ですよ。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十五

 岩波文庫155ページ「行仏之所護念(ぎょうぶつのしょごねん)、行仏之所通達(ぎょうぶつのしょつうたつ)、それかくのごとし。かるがゆゑにしりぬ、修証は性相本末等にあらず。」

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する人=仏が護り念ずるところ、辿り着くところは、これまでに書いたようなことである。であるから知ることができる、修行や経験は、本来持っている性質とか、表面に現れているものだとか、根本だとか、末端だとかそんなことは関係ない。

 坐禅がすべてであって、坐禅することは誰にでも可能だ。条件などない。坐禅しようとするかしないかだけのことである。

 人間の社会は、地位だとか、資産だとか何か基準を作ろう作ろうとする。社会を運営するためには必要だとは思うが、その基準が人間の価値とイコールだと思ってしまうお馬鹿さんがいる。

 基準は大宇宙の真理以外にはなく、人間の脳みそでひねくりだすものじゃない。

 しかし世界の様子を見ていると、結局は経済問題という気がする。結局は「金がありゃ無理が通る」みたいなことはいっぱい起こっているんじゃないか。科学技術は発展しても、人間の質は発展してないんじゃないか?

 大宇宙の真理が基準とならない限り、人類の将来は暗いなあと思う。「自分は優れて

いる」「我が国は優れている」なんて言ってるようじゃお先真っ暗。お馬鹿さんの思い込みほど怖いものはない。

 坐禅してくれませんかねえ。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵  行仏威儀その二十四

 岩波文庫155ページ「曹谿古仏の道得(どうて)、たとひわれにあらずとも、なんぢにあらざらんや。」

 六祖大鑑慧能禅師がおっしゃったことは、たとえ「自分は仏ではない」と考えたとしても仏から見れば「お前は仏である」ということである。

 坐禅した瞬間に仏であるのだけれど中々そういう実感は湧かない。しかし、仏、大宇宙から見れば仏以外の何ものでもない。

 仏であるかどうかは坐禅しているかどうかで決まるのであって、悟りを開いたとか訳のわからないものではない。

 そして自分では仏であるという意識はなくともその行動には威儀が備わる。

 今は「自分は、自分は」と前に前に出てくる時代だと感じる。実力もなく、上っ面の言葉を弄ぶだけの輩が、言葉は悪いがのさばっている。世の中を見渡して、その行動に威儀が備わっている人間がいるだろうか。ほんとに薄っぺらな時代だと思う。

 コロナのワクチンを打ちたがって仕方なくてルールを逸脱する人に威儀などある訳がない。それに他人から「偉い」と思われたい、言われたい人も多いよねえ。「たとひわれにあらずとも、なんぢにあらざらんや」ですよ。自分の外側、社会の評判だとか、地位だとか、収入だとかに価値基準を置くと人間おかしくなってしまう。

 人間の価値は、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するところにしかない。他人がどう言おうと、そこにしかない。

 「うっせえ、うっせえ」という歌が流行った(流行っている?)そうだが、上辺だけの世の中の言動をみていれば、そう言いたくなるのが正常、まともだ。まだ正常なところが残っているといえるのだと思う。

 坐禅しましょう。

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十三

 岩波文庫ページ「吾亦(ごやく)のゆゑに師勝(ししょう)なり、汝亦(にょやく)のゆゑに資強(しきょう)なり。師勝資強、これ行仏の明行足(みょうそくぎょう)なり。しるべし、是仏之所護念(ぜぶつししょごねん)と、吾亦なり、汝亦なり」
 「自分もまた」ということであるから師として勝れており、「お前もまた」」ということであるから優れた資質を持っているのである。この「師勝資強」ということが仏としての行動が明らかに満たされているということである。知らなければいけない、これが仏と言われる方々の護り念ずるところであり、それは自分・他人という区分はない。
 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するところに威儀が備わる。
 つべこべ言っても行動が駄目なら、価値はない。
 薬局チェーンのオーナーのコロナワクチン接種に配慮しろだの、40歳台の市長がワクチン接種しちゃったり、副大臣が遅刻したり、何を言おうが、行動が駄目。これじゃあ話にならない。
 理屈はいいから、ちゃんと行動してくださいな。
 副大臣の遅刻に対して野党の人が「万死に値する」とか言ってたけど、大袈裟過ぎてギャグみたいだ。そんなこと言うなら、国会議員なんてみんな死ななきゃ駄目なんじゃないなーんて馬鹿な私は思ってしまいました。ごめんなさい。
 坐禅しましょう。坐禅するところに自他の区分はない。あるのは大宇宙の真理のみです。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十二

 岩波文庫154ページ「如汝是汝(にょにょぜにょ)、諸仏諸護念、これ行仏威儀なり。」

 自分以外の存在(汝)は「こういうもの」と決めつけることはできないが存在していることは間違いなく、それは「汝」としか言えない(是如)、そのような汝が坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する。それが仏と言われる方々が護り念じていることであり、その行動に威儀が備わるのである。

 IOCの会長の来日が延期になったとか、「小室さん」とかいう人の文書があーだこーだ批判されている。本当のところは私にはわからないが、どちらも観念的な言葉で何とかなると思っているように見える。何回も書いたけど人間の価値は、今この瞬間にどう行動するかにしかない。行動するところに威儀が備わる。逆に言えば、どんなに言葉を費やしても、行動が無ければ威儀は備わらない。威儀の無いことが社会に支持されるとは思えない。

 坐禅しましょう。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十一

 岩波文庫154ページ「この不染汚に、如吾是吾(にょごぜご)、諸仏諸護念(しょぶつしょごねん)、これ行仏威儀なり。」

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動している(不染汚)ところに、仮に「吾(自分)」と呼べるものがあるとして、それが吾というものであり、仏と言われる方々が護り念ずることであり、そこに行動する仏としての威儀があるのである。

 如吾是吾は、自分というものは「こうだ、こういうものだ」と観念的に捉えられるものではないけれども、現実には吾、自分というものはあるということだと思っている。観念ではなく現実に行動することが仏の目指すものであり、そこに威儀が備わる。

 オリンピックをやるとかやらないとか。日本という国にとってコロナの中でオリンピックをやるのは何故なのか、具体的にどうするのか、選手だけではなく全国民についてどうするのか、私には全然わからない。

 観念論はもういい。具体的な行動計画を示してほしい。ワクチンもどうなるのかさっぱりわからないし、外に出るな、酒飲むな、とかいつまで言ってるのかねえ。そんな言葉だけじゃもう無理なんじゃない?と思えてならない。

 坐禅します。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十

 岩波文庫154ページ「しかあればすなはち汝亦如是のゆゑに諸仏なり、吾亦如是のゆゑに諸仏なり。まことにわれにあらず、なんぢにあらず。」
 そういうことであるから、あなたが坐禅し大宇宙の真理と一体となって行動しているのであるから仏と言われる人たちと同じである、自分もまた坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動しているのであるから仏と言われる人たちと同じである。そして、そのような状態においては(仏)、自分とか他人とかの区分はない。(ただ仏として存在し行動しているのである)
 「自分は!自分は!」という自己主張の強い世の中ですなあ。言ったもん勝ちという状況もあるみたいだ。
 でも大事なことは、大宇宙の真理と一体となって行動すること。そしてそれは「普通のことを普通にすること」。坐禅したからといって超人になる訳じゃない。普通の人になるだけのこと。普通=大宇宙の真理、なのだから当たり前だ。
 他人や社会の評価は関係ない。基準は大宇宙の真理以外に無い。坐禅して行動していること、普通に行動していること、それが仏であり、そこに威儀が備わっているのだ。
 自己主張に囚われ自己を見失っている人たちがたくさんいると感じる。