2020-08-01から1ヶ月間の記事一覧

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十七

岩波文庫121ページ「しかもかくのごとくなりといへども、いまだのがれずといふことなかれ、驢前馬後漢(ろぜんばごかん)」 生きているというのは、大宇宙の真理に覆い被されている。それが脱体ということなのだが、そうであるのに「まだ「解脱」できていない…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十六

岩波文庫121ページ「これ撞入と説著(せつじゃ)するなり。脱体(とったい)の行履(あんり)、その正当覆蔵(しょうとうふぞう)のとき、自己にも覆蔵し、他人にも覆蔵す」 (頭の中で考えた理屈ではなく、現実に犬が行動していることから)これを犬の皮袋に仏性が入…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十五

岩波文庫121ページ「しるべし、この故犯すなはち脱体(とったい)の行履(あんり)を覆蔵(ふぞう)せるならん」 知っておかなければならないのは、このように敢えて言葉で言い表そうとすることは、言葉とか理屈を全て脱け出して、ただひたすら行動しているという…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十四

岩波文庫121ページ「知而(ちに)のゆゑに故犯(こぼん)あるべきなり」 知っているからこそ、敢えて言葉で表現しようとするということでなければならない。 言葉で表現しようとするのは、大宇宙の真理であり、大宇宙の真理は言葉では言い表せない何かではあるけ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十三

岩波文庫121ページ「故犯(こぼん)はかならずしも入皮袋にあらず、撞入這皮袋(とうにゅうしゃひたい)かならずしも知而故犯(ちにこぼん)にあらず」 色々頭の中で考えて言葉で表現しようと努力しても、必ずしも現実の身体(皮袋)と同じことにはならない。現実の…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十二

岩波文庫121ページ「不死人はたとひ阿誰(おすい)なりとも、いづれのときか皮袋(ひたい)に莫離(もり)なる」 生きている人間は誰であっても、いつこの身体(皮袋)を離れるということがあろうか(離れることはない) 人間はこの現実の身体、存在として瞬間瞬間生き…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十一

岩波文庫121ページ「いはんや欲識庵中不死人、豈離只今這皮袋(庵中不死の人を識(し)らんと欲(おも)はば、豈只今(あにいま)のこの皮袋を離れんや)なり」 庵(いおり)を建てて仏道修行をしている人を知ろうと思うのなら、今現実の身体(皮袋)を離れて考えること…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十

岩波文庫121ページ「いま一字の入(にゅう)あきらめがたしといへども、入之一字(にゅうのいちじ)も不用得(ふようて)なり」 僧の問いの「入這皮袋」の「入」の一字も、はっきりこうだと言うのは難しいのだけれども、入という一字も必要ないのだ。 犬は犬として…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十九

岩波文庫120ページ「この道得(どうて)は、疑著(ぎじゃ)せざらん、すくなかるべし」 趙州禅師が「しりてことさらをかす」とおっしゃったことを、どういうことだろうかと疑う人は少なくないだろう。 私は仏教哲学を究めたいのではない。現実に生きていくために…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十八

岩波文庫120ページ「いふところは、しりてことさらをかす、となり」 趙州禅師がおっしゃることは、「言葉では言い表せない何かであると知っているけれども、それをことさら敢えて言葉で表現しようとする」ということである。 言葉、対話で理解しあう、という…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十七

岩波文庫120ページ「この語は、世俗の言語としてひさしく途中に流布(るふ)せりといへども、いまは趙州の道得(どうて)なり」 趙州禅師の「為他知而故犯(他、知りて故(ことさら)にが(ため)なり)」という言葉は、世俗的にも世の中で広く使われているけれども、…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十六

岩波文庫120ページ「趙州いはく、「為他知而故犯(他、知りて故(ことさら)に犯すが為(ため)なり)」 趙州が言ったことは「仏性と皮袋を分けて、ことさらに問題にするからだ」(仏性が犬の皮袋に入るとか入らないという問いになるのだ) 私は先日、遺言書(公正証…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十五

岩波文庫120ページ「既有は撞入すべきか、撞入すべからざるか。撞入這皮袋(とうにゅうしゃひたい)の行履(あんり)、いたづらに蹉過(さこ)の功夫(くふう)あらず」 既有は現在の現実の存在なのだから、皮の袋に入るとか入らないなどと言うことを問題にする必要…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十四

岩波文庫120ページ「この僧の道得(どうて)は、今有(こんう)なるか、古有(こう)なるか、既有なるかと問取するに、既有は緒有に相似せりといふとも、既有は孤明なり」 この僧の言っていることは、今という時間に存在しているのか、昔からという時間の中に存在…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十三

岩波文庫120ページ「僧いはく、「既有、為甚麼却撞入這皮袋(既に有(う)ならば、甚麼(なに)としてか却(また)この皮袋に撞入する)」」 僧が質問して、「既に有るということならば、仏性はなんでこの犬の皮の袋に入り込んだのでしょうか」 この質問について道元…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十二

岩波文庫120ページ「仏有は趙州有なり、趙州有は狗子有なり、狗子有は仏性有なり」 仏が有るということは趙州禅師が現実に存在するということであり、趙州禅師が現実に存在することは犬が現実に存在するということであり、現実の犬が存在するということは仏…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十一

岩波文庫120ページ「すゝみて仏有(ぶつう)を学すべし」 自ら一生懸命に仏有、仏としての存在、仏が有るとはどういうことかを学ばねばならない。 一切衆生悉有仏性。一切衆生=悉有=仏性なのだから、仏が有る、仏としての存在とは、ここでは狗子(犬)を材料にし…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十

岩波文庫「この有(う)の様子は、教家(きょうけ)の論師(ろんじ)等の有(う)にあらず、有部(うぶ)の論有(ろんう)にあらざるなり」 趙州禅師の「有」は、経典により論理を説いている者たちが言う「有」ではない。(仏滅後、五つの教団ができたが、その中の)説一切…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十九

岩波文庫119ページ「趙州いはく、「有」」 (僧の問いに対し)趙州は「有」、有ると答えた。 前回の問答では「無」と答えた同じ人が今度は「有」と答えている。 論理が一貫してない、矛盾だ、と言う人がいるだろう。訳のわからん禅問答など時間の無駄と言う人…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十八

岩波文庫119ページ「趙州有僧問、「狗子還有仏性也無(趙州に僧有って問う、「狗子にまた仏性有りや無(いな)や」この問取は、この僧、搆得趙州(こうてじょうしゅう)の道理なるべし。しかあれば、仏性の道取問取は、仏祖の家常茶飯(かじょうさはん)なり」 ここ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十七

岩波文庫「たとひ双放双収(そうほうそうしゅう)すとも、なほこれ業識の始終なり」 無であると放り出しても、有ると収めても、どちらにせよ、これまでの経験からの概念・観念だけのことである。 世の中は絶対の事実。犬は犬なので、仏性が有るとか無いとかと…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十六

岩波文庫119ページ「業識いまだ狗子を会(うい)せず、狗子いかでか仏性にあはん」 過去の経験の積み重ね、過去の経験にとらわれていては、犬は犬として現実の絶対の存在であって概念・観念で理解することはできないということがわからないし、犬が仏性に会う…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十五

岩波文庫119ページ「「業識有(ごっしきう)」、「為他有(いたう)」なりとも、狗子無(くしむ)、仏性無(ぶっしょうむ)なり」 過去の経験に覆われていることから「有る」と認識しようと、客観的に外側から見ると「有る」と見えようと、犬は犬として、仏性は仏性…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十四

岩波文庫119ページ「この道旨は、「為他有」は「業識」なり」 趙州の言葉の意味は、有るとか無いとかというのは、過去の経験の積み重ねにとらわれているということである。 自分も年取ってくると、昔はこうだったなんて思ったりする。若い頃は、年上の人間が…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十三

岩波文庫119ページ「趙州いはく、「為他有業識在(いたうごっしきざい 他に業識の在ること有るが為なり)」」 仏性無であるのは、「他に業識の在ること有るが為なり」と趙州は言う。 業識とは、水野氏の脚注では「生命現象として、無意識から動き出す最初の精…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十二

岩波文庫119ページ「狗子仏性、なにとして無をまつことあらん」 大宇宙の真理は言葉として言い表せない何かなのだから、犬に仏性が有るとか無いとか言う必要はない。 言葉とか概念・観念にこだわりすぎなのではないか、と思うことが多い。そりゃ何にも考えな…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十一

岩波文庫118、119ページ「いはゆる宗旨(そうし)は、一切衆生無ならば、仏性も無なるべし、狗子も無なるべしといふ、その宗旨作麼生(そもさん)となり」 ここでの重要なところは、一切衆生が言葉では言い表せない何かであるならば、仏性も言葉では言い表せない…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十

岩波文庫118ページ「僧いはく、「一切衆生皆有仏性、狗子為甚麼無(いっさいしゅじょうかいうぶっしょう、くしいじんもむ 一切衆生皆(みな)仏性有り、狗子甚麼(なに)としてか無き)」」 質問をした僧がさらに言った「一切衆生はみな仏性有りであるのに、何で犬…