正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十六

 岩波文庫120ページ「趙州いはく、「為他知而故犯(他、知りて故(ことさら)に犯すが為(ため)なり)」
 趙州が言ったことは「仏性と皮袋を分けて、ことさらに問題にするからだ」(仏性が犬の皮袋に入るとか入らないという問いになるのだ)
 私は先日、遺言書(公正証書)、尊厳死宣言公正証書を作成した。自分の今の状態と今後想定される(自分が考えられる範囲だけど)ことを考えてのこと。
 こうありたい、こうあるべきだといくら言ったって、何が起こるかわからない。世の中何でもありだ。その中で、上に書いたことをしておくのが、いいのではないかと思ったのだ。
 人間は必ず死ぬ。生きている間は一生懸命生きる。けど死ぬことを忘れてはいけないと思う。生きるときは一生懸命生きるしかない。でも、次の瞬間死ぬことだって十分にあり得る。私は死ぬからこそ生きているとさえ思う。
 生きていることを前提に考えているのは、片手落ちではないかな。
 どう死んでも、いつ死んでも、それはどうなるかわからない。だから瞬間瞬間生きるしかない。坐禅しながら。