正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十五

 岩波文庫120ページ「既有は撞入すべきか、撞入すべからざるか。撞入這皮袋(とうにゅうしゃひたい)の行履(あんり)、いたづらに蹉過(さこ)の功夫(くふう)あらず」
 既有は現在の現実の存在なのだから、皮の袋に入るとか入らないなどと言うことを問題にする必要はない。現実に瞬間瞬間生きて行動している(撞入這皮袋の行履)ことについて、余計なことを言ったりやったりする必要はない。
 仏教は、主観(理想)と客観(物質)、双方の立場の存在を認め、さらにそれを統合した行動という立場だと思っている。
 目の前で起こったことに、いちいちちょこまかちょこまか、あーでもないこーでもないと、正直うるさい。
 理屈は理屈として、起こったことは起こったことで、だから何が重要でどう行動したらよいのか、政治家の言動を見ても、報道を見ても、私にはよくわからない。「お前が馬鹿なんだ」と言われれば、そうなんでしょう。
 けど、私は坐禅しながら、瞬間瞬間生きていきます。