正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十一

 岩波文庫155、156ページ「一心量たとひ無量仏量を包含せりと見徹すとも、行仏の容止動静(ようしどうじょう)を量ぜんと擬するには、もとより過量の面目あり。過量の行履(あんり)なるがゆゑに、即不中(そくふちゅう)なり、使不得(しふて)なり、量不及(りょうふぎゅう)なり。」

 心の中で考えたことがたとえ無量の仏の働きを含んでいると思い込んだとしても、仏としての行動のすべて(容止動静)を理解しようとするには、仏の行動はそのような心の中で考えたことよりはるかに大きいのである。仏の行動はそのような大きさであるから、心の中で考えても、言い表すことはできないし、使いこなすこともできないし、心の中の考えが仏の行動に及ぶことはないのである。

 正しい行動をするためにはある程度の知識は必要だ。しかし、知識があるからと言って正しい行動ができるわけではない。どんなに言いつくろっても間違った行動は間違った行動でしかない。

 地位が高かろうが、資産がたくさんあろうが、高学歴であろうが、今この瞬間の行動がだめなら、人間としての価値は低いものになる。

 行動が公になる・ならないは関係ない。行動した瞬間に価値は決まる。このことが今の世の中浸透していない。ばれなきゃいいという世の中は非常に低レベルだと思う。

 人間の価値は何か。坐禅しないとわからない。