正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その二十八

 岩波文庫148、149ページ「しかあればすなはち、即心是仏とは、発心(ほっしん)・修行(しゅぎょう)・菩提(ぼだい)・涅槃(ねはん)の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは即心是仏にあらず」

 であるから、即心是仏とは、真実を知りたいという気持ちを起こし、修行すなわち坐禅し、大宇宙の真理を体得し、心身がバランスしている「仏」ということである。まだ発心・修行・菩提・涅槃していないのであれば、即心是仏ではない。

 発心して、辛く長い修行の末、ようやく真理を体得して、心身がバランスする、落ち着くというように一般には考えられているようだが、私は坐禅した瞬間にすべてが備わると思っている。その状態を維持するために毎日坐禅するのだ。涅槃に至ったから坐禅しなくていいなんてことはない。このことは、この後に道元禅師が解説しておられる。

 坐禅すればいいだけ。それを訳の分からないことを言って、菩提、涅槃に至るにはこういうことが必要です、だからお金払いなさいなんてやってる。これは商売であって仏教ではない。

 難行苦行することが偉いみたいに思っている人が多いみたいだけど、毎日きちんと起きて、坐禅して、食事して、やるべきことをせっせとやることをずうっと続けることが真に偉大なことだと思う。

 オリンピックに出るために努力するのは、そうしたいからしているだけで、そのこととと人間の価値はイコールではない。空手でパワハラがあったとか騒いでいるけど、オリンピックに出ることと人間の価値は関係ない。こんな騒ぎを見るとオリンピック絡みでは、おかしな人間が結構いることが分かると思う。

 坐禅しない限り、根本的には何も解決しない。