正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二

 岩波文庫151ページ「始覚本覚(しかくほんがく)にあらず、性覚無覚(しょうかくむかく)にあらず、如是等仏(にょぜとうぶつ)、たえて行仏に斉肩(せいけん)することうべからず」

 いま大宇宙の真理がわかった、もともとわかっていたということではない、本質的にわかっているものではなく、わからないということでもない。今までとりあげた(報仏など)の仏は行仏(大宇宙の真理に従って行動すること)に肩を並べることはできない(レベルが低い)。

 つまり、行動がすべてだ。行動が人間の価値を決め、人間の社会のあり様を決める。

 蔓延防止措置とかいくら声高に叫んだって、人々の行動が変わらなければどうしようもない。行動を改めなければコロナの感染は拡大するだろう。それは人々がそういう選択をしたのだから、その結果は受け入れなければならない。人間は進歩し発展することも可能だし、破滅することも可能だ。自由だ。

 何をしなければいけないか。それは坐禅が教えてくれる。