正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十三

 岩波文庫121ページ「故犯(こぼん)はかならずしも入皮袋にあらず、撞入這皮袋(とうにゅうしゃひたい)かならずしも知而故犯(ちにこぼん)にあらず」
 色々頭の中で考えて言葉で表現しようと努力しても、必ずしも現実の身体(皮袋)と同じことにはならない。現実の身体(皮袋)というものは必ずしも頭の中で知ろうとして敢えて言葉で表現しようとしても同じにはならない。
 知識を軽んずるつもりはない。情報を収集して、それを体系立てて分析するには理論・学問も必要だ。当たり前。
 だけど、現実にこの身体(皮袋)、周りの現実の状況が体得できていないのなら、知識や学問が本当にその力を発揮するのか、甚だ疑問だ。むしろ危険なのではないか。
 そして何よりも根底に大宇宙の真理がなければならない。
 今の世の中、知識や理屈だけの学問を偏重しているように見えてならない。
 前にも書いたけど、理屈なら何とでも言える。そしてその理屈の中でなら、全て正しい。その理屈の外にいる奴らは敵だから攻撃する。そんな幼稚な世界になってませんかね。
 アメリカで白人至上やネオナチとかのヘイトグループの活動が目立って来ているとか聞いた。トランプが大統領になってから顕著になったそうな。でも、もともとそういう人たちはいたのだろう。黒人に警官が暴行してデモや暴動が起こったなんて、ずーっと昔からあるよね。人種差別はいけないという教育はずっと行われてきたと思うけど、現実はどうなんだろうか?
 全ての存在は大宇宙そのもの、大宇宙の一部を皮袋で包んだものが人間。違いなんてある訳がない。それは理屈ではない。坐禅によって、大宇宙と一体(澤木興道氏の「大宇宙とぶっ続きになる」)にならない限り、それを体得しない限り解決しないと思っている。