正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十三

 岩波文庫120ページ「僧いはく、「既有、為甚麼却撞入這皮袋(既に有(う)ならば、甚麼(なに)としてか却(また)この皮袋に撞入する)」」
 僧が質問して、「既に有るということならば、仏性はなんでこの犬の皮の袋に入り込んだのでしょうか」
 この質問について道元禅師がこの後、解説される。
 私なりには、犬は犬として絶対の現実の存在。仏性も言葉では言い表せない何かではあるが、絶対の真実。
 問題は現実だ。何をするかだ。仏教は上のような問答を通じて、そのことを伝えようとしているのだと思う。
 どんなに立派な理屈を展開しても、現実の行動が伴わなきゃ話にならない。
 近頃は、現実に失敗しているのに、何だか小賢しい言葉で言い繕おうとする奴らが多いように見える。
 しかし、すべて現実が答えだ。それ以外には何もあり得ない。誤魔化すことはできない。当座はできたように見えても、結局は露呈する。
そんなことは、わかっていますよね?