正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十二

 岩波文庫120ページ「仏有は趙州有なり、趙州有は狗子有なり、狗子有は仏性有なり」
 仏が有るということは趙州禅師が現実に存在するということであり、趙州禅師が現実に存在することは犬が現実に存在するということであり、現実の犬が存在するということは仏性が現実に存在するということである。
 私は、要は大宇宙の真理は目の前の現実なのだ、と理解している。
 色々立派な意見をのたまう人がいるけど、この人現実がちゃんと見えているのかな?と思うことは多々ある。
 それじゃあ駄目だけど、ご本人は意気軒昂だ。幸せと言えば幸せなんだろう。だけど、こういう人が権力とか権限を握るととても困る。言っちゃ悪いけど、要するに「馬鹿」なので、とても困る。
 現実をしっかり見るというのは、しかし、難しいとは思う。ALSで自ら死を選択したということがあった。報道をちらりとしか見ていないので、本当の事実関係はわからない。私がALSに罹患したらどういう行動をとるだろうか。正直、現時点ではわからない。生きる権利、死ぬ権利など、社会としては色々な観点から議論して整理しなきゃいけないんだろう。ただ、死ぬ権利を安易に認めてしまうと、それを商売にする奴らが出てくるだろうな、ということは容易に想像はつく。
 生も一時の位なり、死も一時の位なり。瞬間瞬間生死は交錯している。その中で、どう行動するか、坐禅しながら生きていきます。