正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十八

 岩波文庫119ページ「趙州有僧問、「狗子還有仏性也無(趙州に僧有って問う、「狗子にまた仏性有りや無(いな)や」この問取は、この僧、搆得趙州(こうてじょうしゅう)の道理なるべし。しかあれば、仏性の道取問取は、仏祖の家常茶飯(かじょうさはん)なり」
 ここでは、狗子に仏性が有るか無いかの問答が再び繰り返されている。この問いは趙州をうまくつかまえている(水野氏脚注)そうだ。仏性についての問答というのは、仏教の世界では常に行われてきたことである。
 言葉では言い表せない何かということを納得するためには、坐禅しながら経典を読んだり問答したりしなければならないということだろう。
 この後、趙州禅師は、前回とは違い「有」と回答される。そしてそれを道元禅師が解説をされる。
 この現実は大宇宙の真理に従って動いている。人間の脳味噌でそんなに単純に割りきれるもんじゃない。
 一見矛盾しているようだが、そうではなく、言葉では言い表せない何かであるが絶対的に存在するということを、色々な形で示しているだけのことだと思っている。
 何だか単純にひとつのことを、偉そうな態度で大きな声で言うと通用しちゃう世の中では困りますよね。
 コロナにしたって、対応策には非常にたくさんの要素が絡んでいるだろう。
 1人で帰省したのに非難されたり、感染者が出たら地域から排除しようとしたりするとも聞く。日本という国は、教育が行き届いた民主国家なんですかね?