正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十

 岩波文庫118ページ「僧いはく、「一切衆生皆有仏性、狗子為甚麼無(いっさいしゅじょうかいうぶっしょう、くしいじんもむ 一切衆生皆(みな)仏性有り、狗子甚麼(なに)としてか無き)」」
 質問をした僧がさらに言った「一切衆生はみな仏性有りであるのに、何で犬は仏性が無いのか」
 これは、当たり前と言えば当たり前の質問。しかし、この後、道元禅師の解説は「ははあ、そういうことか」というもの(少なくとも私にとっては)。
 次回その解説について書くことにして、「無」についてもう少し書いてみたい。
 無になることをすごいことのように言って、「無の境地にならねばならん」とかのたまう人たちがいるけど、商売にしようとしているとしか思えない(私が馬鹿なのかもしれないけど)
 私には、「無」は特殊な特別なことには思えない。仕事でも遊びでも一生懸命に集中している状態は「無」以外の何ものでもないと思う。時間が経つのを忘れたということは誰でもあるんじゃないかな。つまり、普通のこと。仏教は、普通の人になることを重要視しているのだから、「無」は特別なことではない。仏教哲学とかいって、変に言葉で、頭の中でいじくり回すとおかしなことになると思っている。
 無にならなきゃいかん、無になれば苦しみから逃れられるなんて言うけど、無はそんなものではない。
 大宇宙の真理、仏性、無、これらは言葉では言い表せない何かなので、概念的、観念的にいじくり回したり、とらわれると苦しくなるだけ。ムームー唸るのは無駄です。
 坐禅してればいいのです。