正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十九

 岩波文庫118ページ「傍観者(ぼうかんしゃ)の喚作(かんそ)の無も恁麼道なるべし。その無わづかに消石(しょうせき)の日あるべし」
 はたで見ている人が言うところの無も言葉では言い表せない何かである。言葉では言い表せない何かであるから、「石」と呼ばれているものも、結局のところ言葉では言い表せない何かとしか言えないことになるだろう。
 何度も同じことを書くけれど、大宇宙の真理は言葉では言い表せない何かなのだ。しかし、大宇宙はその真理によって動いている。人間一人一人も大宇宙そのもの(大宇宙を皮で包みとったもの)。世界の存在すべてが大宇宙なのだから、言葉では言い表せない何かであって、有るとか無いとかいうものではない。
 言葉では言い表せない何かである大宇宙の真理のもとに生きていく、これが私の願うところ。あくまで「願い」だけど。
 世の中みてると、脳味噌重視し過ぎじゃないかな。学力、学歴、もっともらしい台詞が言える人。
 そんなもの、いざというときには、無力だと思っております。