正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十八

 岩波文庫120ページ「いふところは、しりてことさらをかす、となり」
 趙州禅師がおっしゃることは、「言葉では言い表せない何かであると知っているけれども、それをことさら敢えて言葉で表現しようとする」ということである。
 言葉、対話で理解しあう、というのは素晴らしい、美しいことだげど、現実にはとても難しい。
 お互いの権益の違い、情報の格差、これまでの経緯等々、そもそも実質的な対話にならないこと多々ある。
 そうなるとパワーゲーム、力の闘いになるか、あるいは、理屈だけの上っ面のやり取りになってしまう。
 米中のやり取りを見ていても、結局は経済力・軍事力の争いにしか見えない。
 私は、結局最終的には大宇宙の真理に従った結末を迎えると信じている。しかし、現実には「言葉では言い表せない何かである大宇宙の真理」なんて言っても、変なやつとしか見られないし、仕事も処理できないので、どうしたらよいか、頭を捻ってディスカッションしようと努力しているつもり。「ことさらにをかす」だ。
 とても疲れることが多いけど、そうするしかないと思っている。もちろん、坐禅していることが前提だけど。