正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十九

 岩波文庫114、115ページ「黄檗いはく、「不敢(ふかん)」。この言(ごん)は、宋土に、おのれにある能を問取せらるゝには、能を能といはんとても、不敢といふなり。しかあれば、不敢の道は不敢にあらず」
 黄檗は「どういたしまして(挨拶語)」と答えた。この不敢という言葉は宋の国では、自分の能力を問われたときには、能力があるとしても能力があるとは言わず、「不敢(どういたしまして)」と言うのである。であるから、不敢と言ってはいるが、文字通りの不敢ということではない。
 ここのところは、黄檗が謙遜して不敢と答えたともとれるとも思う。よく知らないけど、当時の宋の国では、うっかり能力があるということを避けていたのかもしれない。
 私は仏教は大宇宙を対象としているので、言葉として追求していくと、究極的には「言葉では言い表せない何か」になってしまうと思う。でも、それでは人々に伝わらないから、仏祖の方々、道元禅師は何とか表現しようと努力されてきたのだと思う。
 不敢には、そういう側面もあると思う。
 また、大宇宙の真理は言葉では言い表せない何か、厳然として実在するが言葉では言い表せないから、言葉遣いとしては慎重にならざるを得ないとも思う。
 今の世の中、薄っぺらな言葉、現実、事実に根ざしてない言葉が溢れかえってますなあ。主張しないと損するみたいな、言った者勝ちみたいだ。
 しかしねぇ、どんなに一時言葉で飾っても、最後は現実が答えを出す。そのことは間違いない。