正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十七

 岩波文庫116ページ「「黄檗便休」。これは休するなり。不肯(ふけん)せられて休し、不肯にて休するにあらず。本色衲子(ほんしきのっす)しかあらず」
 黄檗禅師は黙っていた。というのは文字どおり黙っていた、問答をやめたのである。(以下水野氏の脚注をそのまま引く)相手に納得してもらえないで問答をやめたのでもなく、自分が納得のいかないまま問答をやめたのでもない。本物の修行僧はそういうことをしない。(互いにこれ以上言う必要がないからやめたのである)
 道元禅師は南泉禅師、黄檗禅師とも大宇宙の真理を体得していると確信しているから、このようにお書きになっているのだと思う。ここのところでは「修証一如」だと思う。
 正法眼蔵の中では、高名な僧に対しても「理解が不十分である」などと辛辣に批判されているところもかなりある。道元禅師はそれらも含めて重要な問答、公案を取り上げておられる。
 ただ、このような問答等が一般に仏教を分かりにくいものとしているかもしれない。分かったような分からんようなやり取りを「禅問答のようだ」とも言うし。
 しかし、この前までの道元禅師の解説を読めば、二人がこれ以上やり取りをする必要はないと私には思える。
 今は言葉だくさんの、饒舌な世の中だと思う。言った者勝ちという感じも強いと感じる。
 でも正しいことを黙々とやっている人たちがいて、初めて世の中まともになると思っている。
 まあ人間何をやってもいい。YouTuberとかいう人たちがいて成功すると随分儲かるらしい。儲かるということは支持する人がたくさんいるということだから、それはそれで結構なことだと思う。大いに頑張れば良いと思う。
 けれど、私は儲けてそれでどうするかが、問題だと思う。私は人が生きるのは大宇宙の真理を体得するためだとしか思っていない。生きるためには食べなきゃいけない。食べるためには働いて報酬を得る必要がある。ただ、大宇宙の真理を体得するため生きるのに必要な報酬だけあればいい。それ以上報酬を得て、高級車買ったり、タワーマンションに住んでみたり、グルメとか称して高い食い物食べてみたり、おおよそ私には無駄なこととしか思えない。
 まあ、このように偉そうに言っても、私もまだ生臭くて趣味にお金使っているので、面目ないとは思っている。まだまだ、自分は中途半端だなぁと反省しております。