正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十一

 岩波文庫115ページ「長老見処たとひ長老なりも、長老見処たとひ黄檗なりとも、道取するには「不敢」なるべし。一頭水牯牛出来道吽吽(いちょうすいくにゅうしゅつらいどううんうん)なるべし」
 長老(仏道に優れた人)の意見・考えが長老にふさわしいと言えるとしても、長老の意見・考えが黄檗のものだと言えるとしても、そのことを言葉で表すとなれば「不敢」というしかない。一頭の水辺に飼われている牛は道に出てきてモウモウと鳴くしかないのだ。
 大宇宙の真理は厳然と存在し、坐禅しながら仏教を勉強していれば、大宇宙の真理を体得することはできる。しかし、言葉で言い表すのは難しい。だから、つべこべ言わず「不敢」と言っている。
 道元禅師は、しかし真の仏教を伝えるために正法眼蔵を書かれた。苦心惨憺、必死に書かれたと思っている。究極的には言葉では言い表せないものを、言葉にしようとされた。偉大だと思う。お陰で、私なりに考えることができる(正しいかどうか分からないけど)。
 そして、仏教は現実の世界、日常の世界、今この瞬間の世界のことを説いている。だから、問答の中で「不敢」と表現しているが、それは日常のありふれた当たり前の光景つまり牛がモウモウと鳴いているのと同じということになる。
 仏教は異次元のことを説いているのではない。現実そのものだ。だから、牛がモウモウ鳴くという当たり前のことを持ち出しているのだと思う。
 禅という言葉で、神秘的な、あるいは高尚な思想のように語っている人たちがいるけど、私は、そうではないと思っている。