正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その六十四

 岩波文庫89ページ「このとき、六祖その人ならば、この無仏性の語を功夫すべきなり。「有無の無はしばらくおく、いかならんかこれ仏性」と問取すべし、「なにものかこれ仏性」とたづぬべし」
 六祖大鑑慧能禅師が仏道を得ている人、真実を体得している人ならば、無仏性という言葉を勉強するのが当然のことである。そのときは「有るとか無いとかは、ひとまず脇に置いておく、仏性とはいかなるものか」と問うべきであるし、「仏性とはどのようなものか」と尋ねるべきである。
 つまり、有とか無とか抽象論、観念論を頭の中でいじくり回してないで、肝心要の仏性そのものを問え、ということ。
 今の世の中見ていても、私の周囲、仕事でも、どうでもいいことにやたらと時間を費やしたり、肝心なことが議論されてなかったりする。
 現実、事実が見えていないのだろう。
 あるいは、本当は、何が問題なのか何が肝心なのかは分かっているのだけれど、それを表に出せない理由、過去のしがらみ、利害関係、見栄とか、立場とか、責任回避とかがあって、肝心なことを言わないこともあるだろう。
 どちらにしても、本人も組織も社会も不幸なことだ。
 そのときは言い繕えても、最終的には悪い結論にしかならない。そんなことは当たり前のことだけど、人間、往々にして当たり前のことがわからなくなってしまう。それどころか、当たり前じゃないことを正当化さえする。
 では、どうするか?お察しのとおり坐禅するしかない。