正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その六十五

 岩波文庫89ページ「いまのひとも、仏性ときゝぬれば、「いかなるかこれ仏性」と問取せず、仏性の有無等の義をいふがごとし、これ倉卒(そうそつ)なり。」
 今の人たちも、仏性と聞いたときに「仏性とは何か」とは問わず、仏性が有るとか無いとか言っているが、これはあわて者の態度だ。しっかり根本を考えず、上っ面のところで慌てている。
 重要なのは「仏性とは何か」という本質であって、有るとか無いとかは、これまで書いてあったように、どうでもよいことなのだ。だって悉有仏性=無仏性なのだから。
 「あなたには悪運がついている」とか「良い運気を持っているが、こうすればもっと良くなる」なんて言って、金儲けしようとしている人たちがいる。
 私は、そんなもの有ろうが無かろうが、今の瞬間を一生懸命行動して、生きていくしかないと考えているので、他人が何を言おうとどうでもいい。
 苦しいときは必死に苦しめばいい、というか苦しむしかない。苦しさから逃れようとするから、どんどん苦しくなると思っている。
 いつでも平穏、安心無事に生きられるなんて、あり得ないことを望むから、苦しくなるんだと思う。
 坐禅していれば、自分の行動はおかしなことにはなりにくくなる(まったく失敗しないなんてことはない)し、その結果周囲にも良い影響を与えられるとは思っている。
 しかし、天災やら事故やら病気やらから逃れられることはない。そういう事態になったときに、おかしな行動をしなくはなると思うけど。
 「災いから逃れられる」なんて、嘘つけ!詐欺師め!としか思えない。
 人間は災いから逃れるために生きているんじゃない。今で言えば、コロナに感染しないのが生きる目的ではない。感染を避ける、人に感染させないようにする、というのは、正しい行動をとるということであって、生きる目的ではないのは当たり前のこと。
 結局のところ、「何のために生きるのか」しかない。「いかならんかこれ仏性」なのだ。核心、本質無しに、その周囲でおろおろうろうろしているのは、倉卒だ。きちんと考えずに、どうしようどうしようなんて言っているのは、あわて者としか言いようがない。
 慌てて何かするとろくなことないですよ。