正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その五十二

 岩波文庫86、87ページは、五祖大満弘忍(だいまんこうにん)禅師と六祖大鑑慧能(だいかんえのう)禅師との対話が取り上げられている。
 六祖が五祖のところに参じた時に、六祖が「自分は嶺南人であり、作仏(さぶつ)を求めている」としたのに対し、五祖は「嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん」とおっしゃった。このことを道元禅師が説かれている。
作仏とは仏になるということとのこと。
 道元禅師は次のように説かれている。「この「嶺南人無仏性」といふ、嶺南人は仏性なしといふにあらず、嶺南人は仏性ありといふにあらず、「嶺南人、無仏性」となり。「いかにしてか作仏せん」といふは、いかなる作仏をか期するといふなり」
 「嶺南人無仏性」は仏性がないとかあるとか言っているのではない。嶺南人=無=仏性ということだ。無、言葉では言い表せない何かであり、仏性=悉有=衆生である。つまり、言葉では言い表せないが、世界のあらゆる存在、絶対的事実そのものである。そういう存在なのだから、既にして仏性であるのだから、仏になるとか、ならないということではない。
 つまり、「仏性がないのに、どうやって仏になるというのか(嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん)」と解釈するのではない。
 お断りしておかなければいけないが、この話の前提には坐禅があるということ。坐禅しなければ、人間は本来「仏」であるけれど、仏は現れない、本来の面目に立ち返ることはできない。
 「あなたは修行すれば成仏できる、運気が上がる、悟りを開ける、成功する」などと言って、金を巻き上げようとする輩は後を絶たない。
 人間は仏なのだから、坐禅だけしてればいいのだ。他に何もいらない。
 しかし、宗教めいた姿を装って金儲けしようとする輩は古今東西数えきれないですなあ。近頃は宗教+AIとか、もっともらしい科学の衣装まで纏い始めている。あの手この手よく考えますね。ご苦労様であります。こういう輩は金儲けが目的なんだろうけど、それを信じる人たちも金欲しい、成功したい、楽したい、というのだから同類なんだろう。
 坐禅して本来の面目に戻りましょう。