正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その四十七

 岩波文庫85ページ「無仏性たどりぬべしといへども、何(か)なる標準あり、汝(にょ)なる時節あり、是(ぜ)なる投機あり、周なる同生(どうしょう)あり、直趣(じきしゅ)なり」
 無仏性について「たどりぬべしといへども」、ここは水野氏は「戸惑うに違いないが」と脚注されている、西嶋氏は「さまざまな観点から考えることができるけれども」とされている。いずれにしても無仏性とは何かを考える時に、「何」言葉では言い表せない絶対の事実があり、「汝」という実在の事実が存在する。「是」現在の瞬間であるという示し方もある。「周」という現実の人の名前と同じでもある。仏性と直接つながっている。
 何回も書いたけど、仏教は現実をどう生きるか、ということを問題にしている。だから「無仏性」ということを考えるときも、頭の中で、観念論、抽象論をこね繰り回すのではなく、現実の「何」「汝」「是」「周」というところから考えなければいけない。仏性=悉有=衆生なのだから、現実に即して考えることは仏そのものと一体となっている状態なのだ。
 人間は現実の世界に生きている。当たり前だ。言うまでもない。ところがところが、現実を見失うというのは、珍しいことではないんだよね。
 個人でも、集団でも同じ。集団は色んな人がいるのだから、修正されても良かろうと思うけど、集団が現実を見失って突き進み始めると、止まらないんだよね。何人かが「おかしい」と言っても、逆にその人たちが「お前がおかしいんだ!」なんて非難されて苛められたりする。頭の中の観念論ではとても美しい世界を描くことができる。けれど、観念論と現実の間には大きな距離があるのが普通だ。この距離を埋めるのは、瞬間瞬間の行動の積み重ねだ。どう行動するかで、行動できるかで、成否は決定する。
 だから、集団のトップの責任は重い。一方でトップが何と言おうと間違っているものは間違っていると、本当は周りの人間が言わなければいけないとも思う。実際には、そんなことを言えば左遷、降格させられちゃうだろうけど。しかし、因果の法則で、間違ったことは必ず悪い結果になる。左遷、降格させられようと、正しいことをした結果は正しいものになる。これは絶対で微塵も揺るぐことはない。
 さて、どう対応、行動する?坐禅するしかない。