正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その四十八

 岩波文庫85ページ「五祖いはく、「仏性空故、所以言無(ぶっしょうくうこ、しょいごんむ)」あきらかに道取す、空は無にあらず。仏性空を道取するに、半斤(はんきん)といはず、八両といはず、無と言取するなり。」
 五祖は「仏性空故、所以言無」と言われたが、これは空つまり、現実そのもの、ありのままに存在しているものは、「無い」ということはできない。そして仏性そのもの、ありのままの存在である仏性は言葉では言い表せない何かなので、それを敢えて言葉で表現しようとするならば、(斤とは重さの単位で一斤は十六両とのこと。だから半斤=八両)具体的な半斤とか八両などとは言うことができないので、「無」と言われたのだ。
 「空」「無」という言葉を間違ってとらえてしまうと、仏教は本当に訳のわからないものになってしまう。
 「空」をこの世の色々なものは本当は存在しない、人間がそう思っているだけだ。人間が勝手に「有る」と思うから苦しみが生まれるなんて言われても、私は全く理解できない。そんなことで現実の世の中生きていけるか!目の前の現実を処理し続けなければならないに決まっている。暢気なことを言っている暇は無いのだよ。
 「無」も無心とか無念無想とか言うけど、人間そんなことを目指す必要なんかないと思っている。仕事に必死に取り組んでいるときは、そのことに集中しているから無心と言えるだろう。時間が経つのを忘れたという経験はあるのではないかな。スポーツで「ゾーンに入る」というのも同じではないかな。極度に集中している状態なのではないか。つまり行動していることが重要なのだ。
 でも、意識して「無」になろうなんて言っても無理。前にも書いたけど、坐禅しているとものすごく色んな想念が沸き上がって来る。その度に「いかん、いかん」と想念を振り落とす。この繰り返しだ。もちろん、本当に静かなときもあるけど、それはたまたまそういうときなので、それを目標にしてはいけない。昔、新聞で「無になんかなれっこないから坐禅はやめた」という記事を読んだ記憶がある。「無」に対する誤解が坐禅しようとする人を妨げてしまっている。また「無にはなれないので息を数えている」という人もいる。これは「数息(すそく)」というらしいが、西嶋氏の言うように、これでは坐禅をしているのではなく、息を数えていることをしていることになるので駄目だと信じている。
 道元禅師は、無、空を様々な方法で伝えようとしてくださっている。ありがたいことだと思う。「無」や「空」を観念的な言葉遊びにしてはいけない。