正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その四十九

 岩波文庫85、86ページ「空なるゆゑに空といはず、無なるゆゑに無といはず、仏性空なるゆゑに無といふ。しかあれば、無の片々(へんぺん)は空を道取する標榜なり、空は無を道取する力量なり」
 空つまりありのままの存在であるというのは、単純に言葉で「空」などとは言えない。現実に生きている中では有るとか無いとか「言葉」で表現している暇など無いから「無」などとは言えない。仏性はありのままの絶対的存在であるから、それを敢えて言葉で表現すれば「無」としか言い様がない。そういうことであるから、現実の中の色々な事は「無」が色々な形で現れていることであり、それはありのままの存在=空の具体的な現れ方であり、言葉では言い表せない何かを指し示す道しるべである。言葉では言い表せない何か「空」には、この世界のすべての存在を単純に「名詞」「レッテル」で言おうなどとはせず「無」ということができる力量があるのだ。
 西嶋氏は、「仏教は実在論だ」と主張されている(と思う)。仏教界では異端らしい。しかし、上記のとおり、現実の真実を対象としているのだから、実在論なのだとしか思えない。
 まあ、学会とか宗教でも何でも団体にはヒエラルキーがあって、その主流派と異なる主張をするのは大変だ。しかし、これは「正しさ」の議論ではない。そう思う人間が多いか少ないかだけの話しだ。
 ヒエラルキーのトップの考え方が主流になるに決まっている。そして困ったことにトップになるのは、正しさによってなるのではなく、権力闘争に勝った者であることがほとんどすべてであるということ。
 ただ、どんなにその団体が大きくとも、歴史があろうとも、トップが正しくなく、周りもそれを止められなければ、遅かれ早かれ、その団体は駄目になる。因果の法則でそれは絶対だ。
 ちょっと話しはそれるが、「忖度」という言葉が流行った。今も流行っているのかな?社会、団体の中で生きていれば「忖度」なんてあって当たり前だ。なーんにも忖度しない奴は自分勝手な厄介な奴だろう。
 幼稚に忖度はいかんとだけ言っているのは、お馬鹿さんとしか言い様がない。
 やって良い忖度と駄目な忖度がある。忖度することで全体が和やかに一体感を持って事を進められるということはあるだろう。良い忖度なのか悪い忖度なのか、それを決めるのは、大宇宙の真理であり、それは坐禅した心身によって可能となる。
 駄目な忖度はしない場合、トップやその取り巻きに疎まれて、苛められる可能性が高いことは当然だ。左遷されたり、降格させられたりもするだろう。それでも、「この忖度はしない」とするかしないかは、坐禅が決めてくれる。