正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その四十五

 岩波文庫85ページ「仏性成仏のとき無仏性なるか、仏性発心のとき無仏性なるかと問取(もんしゅ)すべし、道取(どうしゅ)すべし。露柱(ろしゅ)をしても問取せしむべし、仏性をしても問取せしむべし」 
 仏性が現実に現れているときを無仏性というのか、仏性を得たい、理解したいと思い立ったときを無仏性というのか。どういうことなのかを問うべきである。露柱とは寺院の建物の外に立っている柱だが、それにも問いかけるべきである。(悉有すべての存在はすべて等しい存在。柱も人も同じ)仏性はすべての存在なのだから、仏性そのもの(それは自分自身を含めたすべての存在)に対しても問うべきである。
 人間は大宇宙の1つの存在であり、大宇宙のあらゆる存在と同じである。大宇宙の一部を皮袋で囲ったものを人間と称していると言えるんじゃないかな。だから人間=大宇宙だ。あらゆる存在=大宇宙だ。正法眼蔵には、人間のことを「臭皮袋(しゅうひたい)」つまり臭い皮の袋という表現が度々出てくる。豆知識です。
 人が死んで火葬されれば、皮で覆われていた大宇宙の一部が解放されるだけのことだと私は思っている。だから、葬式とか墓には興味はない。葬式とか墓は人間の慣習に過ぎないと思う。もちろん大事にしたい人は大事にしてください。
 すべての存在が大宇宙の一部なのだから、差別というのはあり得ないことになる。だけど、差別は存在している。「差別はいけない」と色々な人、機関が主張している。教育も行われている。法律も作っている。差別した人に対し、SNSも含め社会的に制裁も加えている。
 それらは大事な取り組みだろう。当面そうするしか無いのかもしれない。
 けど「差別はいけない」という理屈、観念で解決するだろうか?制裁加えても「うっかり何かやってしまうとひどい目にあうから黙っていよう(本音では納得しないけど)」と思っている人はけっこういるのでは?
 世界を見ても、ナショナリズムというか、民族主義というか、そのような勢力が台頭してきているように見える。
 本来、すべて大宇宙の存在であり、すべて同じものなのに。ただ、これは坐禅した心身でないとわからない。坐禅によって本来の面目となれば、差別するということそのものが起こらない。
 だから、坐禅が必要なのです。