正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三十三

 岩波文庫80ページ「恁麼ならば、山河をみるは仏性をみるなり。仏性をみるは驢腮馬觜(ろさいめし)をみるなり。「皆依」は全依(ぜんえ)なり、依全(えぜん)なりと会取(ういしゅ)し、不会取(ふういしゅ)するなり」
 そのようなことであるから、山や川を見るということは仏性を見ているということだ。仏性を見るということはロバや馬の口を見ることだ(昔の中国では荷物の運搬にロバや馬を使っていたらしいから、町中でよく見るものだったのだろう。つまり、仏性を見ることは日常普通に身の回りにあるものを見ること、ということのようだ)。「皆依」とはすべての存在が仏性によって成り立っている、仏性そのものであるということだし、仏性に依っているということだ。そのことを理解し、また理解という頭の中だけのこととしないのだ。 
 全依、依全という表現を道元禅師は使われている。すべての存在が仏性である、仏性によって成り立っているということを表現するには、全依という一面の表現では足りないので、依全とも付け加えられているのだ、と思っている。一面的な表現で足りるものではない。世の中のすべてのものは、そういうものだと思っている。一面的、一方的な表現は「迫力」はあるかもしれないが、現実から遊離していることが、ほとんど(すべてと言ってもいいとも思う)。現実はそんな単純ではない。断言すると「凄い人だ」なんて思われるから、調子に乗るおっちょこちょいがたくさん出てくる。
 会取、不会取というのは、頭で理解することも大事だが、頭の中だけで分かっていても意味がない。重要なのは、現実での行動なのだから、理解だけではないということで「不会取」、理解するしないを問題にしないから「不会取」と思っている。西嶋氏は「超越する」と表現されている。
 人間が考え、理解するのは大事なことに決まっている。しかし、頭の中で理解しただけでは何も解決しない。現実の中での行動によってのみ解決することができる。誰もが「実際にやってみると難しい」という経験はあると思う。
 澤木氏や西嶋氏は「饅頭とはどういうものかを、いくら言葉を費やしても分からせることはできない。しかし、一口饅頭を食べればたちどころに分かる」ということをしばしば書いておられる。
 現実の世界で一体どうやったらよいのか、行動が重要だ。ただし、それが大宇宙の真理に沿った正しいものでなければならない。どうしたらよいか。坐禅するしかない。坐禅した心身で行動することのみである。