正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十三

 岩波文庫117ページ「このゆゑにいはく、籮籠(らろう)一枚、時中(じちゅう)十二。依倚不依倚(えいふえい)、如葛藤依樹(にょかっとうえじゅ)。天中及全天(てんちゅうぎゅうぜんてん)、後頭未有語(こうとうみゆうご)」
 (全ての物が常に不依倚である)その故に、籮(魚を獲る網)籠(鳥をいれるかご)全て仏性であり、いついかなる時も仏性である。何かに依る、依られらというのは葛(つづら)や藤(ふじ)が樹木に絡みつくようなものである。天の中でも天全体であったとしても、ここまで言えば、あと言うことはない。
 籮籠ということは、動きを制限すること。不依倚は周囲にとらわれないということ。であれば、籮籠は仏性の妨げのように思うけど、「不依倚」を単に言葉として観念的に考えてはいけないということだと思う。自己も周囲も含めて現実なのだ。生きている限り、その時間の中は現実なのだ。だから、大宇宙全体が仏性なのであり、依倚不依倚は分けるものではなく、一体なのだ。それは葛藤と樹木があたかも一つの物となっているようなものだ。大宇宙とはそういうものだということだと思う。
 仏教は単純ではない。大宇宙が、この現実がさまざまな面を持つ複雑なものなのだから、いついかなるときも「不依倚」で済むわけがない。
 これを思想として徹底していない、一貫していないと批判する人はいるだろう。
 けれど、過去現代を通じて、一つの思想だけで成立した時代があったろうか?一つの思想に囚われると、魔女狩り、大虐殺、弾圧、テロという人間として「どうしてこんなことができるのか?」ということが起こっていると思う。
 頭の中だけなら、理想的な思想は成立するが、それを現実に行おうとすると上に書いたようなことが引き起こされる。
 仏教は現実を対象にしている、そこに価値がある。そして、真理は言葉では言い表せない何かではあるが、存在する。それは坐禅でしか体得できない。