正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三十四

 岩波文庫80ページ「三昧六通由茲発現(さんまいろくづうゆうじほつげん)。しるべし、緒三昧の発現未現、おなじく皆依仏性なり。全六通の由茲不由茲、ともに皆依仏性なり」 
 坐禅(修行)による境地、六神通と言われていている力も仏性から現れる。ここで知っておかなければならないのは、これらの境地が現れるとか現れないとかいうのも、すべて仏性に依っているのだ。六神通が現れるとか現れないとかいうのも、皆、仏性に依っているのだ。
 正法眼蔵では、しばしば、○○未○○とか○○不○○という表現が出てくる。私は、これは頭の中、言葉での○○というようなものでは何も解決されない。むしろ頭の中の観念、言葉に引きずり回されて、訳が分からなくなってしまう、ということを表現されているのだと思っている。言葉の上だけで、肯定、否定と読んでしまうと理解できないと思う。
 現実に生きていれば、単純明快に「こうだ!」と言い切れることなど、ほとんどないと思っている。仕事をしていて「これはこうに決まっている。こうすりゃいいんじゃ!」とのたまう人たちがけっこういるけど、私は、その人たちの顔をまじまじと見てしまう。本気か?と思う。そりゃ物事の一面だけ取り上げれば、そうとも言えるだろうが、物事は色んな側面を持っている。
 それを分かった上で意識して言っているのか、本気で信じているのか分からないけど。
 大きな声で言い切ると「偉い人」だと評価されちゃったりするから、厄介。その上、そういう人は上手くいかなくても、蛙の面に小便という強靭な鈍感さを持っていることも多いから、なおさら厄介。
 社会の中で、大宇宙の真理に従って生きる。そのためには坐禅して正法眼蔵読んで、この世の中、宇宙の現実を体得して、どう生きるか決めていくしかない。仏性=悉有=衆生なのだから、そうするしかない。
 コロナウイルスで大騒ぎで、政府を批判する人もだいぶいるようだ。批判することは、自由を守るために大切。どこかの国のように、情報統制して、本当はどうなっているかわからない、知らせようとする人は行方不明じゃ、どうしようもない。
 ただ、ウイルスの性質も未知数、どのように伝染するかも明確ではない、治療薬もない、治療方法も確立されてない、隔離すると言ったって施設や医療関係者は有限だ。その中でどうするのか?一面取り上げて批判するなら、なんとでも言える。
 繰り返すが批判できない社会になったらおしまいだ。批判しましょう。
 しかし、少なくとも、政治に関わる人は、総合的に判断して、実行可能な具体案を出せなければ、話にならない。そうじゃなきゃ、ただの悪口。現実を処理してください。
 そして、実務に携わる人は、すべてが上手くいくというような、あり得ない、空想を振り回すことはやめてちょうだいな。お願いいたします。