正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 その三十六

 岩波文庫80ページ「しかあれば、六神通は明々百草頭数(めいめいはくそうとう)、明々仏祖意なりと参究することなかれ。六神通に滞累(たいるい)せしむといへども、仏性海(ぶっしょうかい)の朝宗(ちょうそう)に罣礙(けいげ)するものなり」
 (毎日毎日瞬間瞬間を生きていくのだから)六神通を目の前にあるたくさんの草花であるとか、明らかに仏祖の意思であるとか、頭の中で、言葉でもって考えたりしてはいけない。「六神通に滞累(たいるい)せしむといへども」は水野氏の脚注によると「六神通の参究をしているようであるが、それも仏性海の只中の事実である」とされている。現実の世の中で生きているということなのだと私は思っている。同じく脚注で「朝宗」とは「すべての川が海に流れこむこと」、「罣礙」は「一体となっていること」とされている。私なりに考えると、すべて仏性海=現実の世界の事実とその中での行動だということではないかと思う。
 罣礙という言葉は正法眼蔵の中によく出てくる。引っ掛かるとか邪魔をされるとかいうことらしい。それは「一体となる」ということなのだろう。
 現実の世界で生きているというのは、そのこと自体が現実そのもので、現実に罣礙されているという表現は私は、すんなりと実感できる。
 まあ、世の中には腹の立つ奴らはごちゃまんといるし、「恥を知れ!」と叫びたくなる奴らもごちゃまんといる。私も他の人からそう思われているかも知れないけど。
 でも、それも現実。現実だから仕方ない、あきらめるということではない。ただ、それを現実に具体的にどうするかは、よくよく工夫がいる。その大前提は坐禅
 現実に徹底的に立脚しないと理想は実現しない。最近の世の中の出来事とか風潮は、頭でっかちになりすぎと思えて仕方がない。
 法制化、厳罰化する、欧米ではそうなっているという。その考えは一理あるとは思う。ただ、欧米というのは、色んな民族、色んな宗教とか多種多様で、法律とか契約でガチガチに縛らないと何をしでかすかわからないというところはあると思う。私も経験上、法律にないとか契約にないとか、「普通の人がそんなこと言う?」と思った経験がある。世の中の流れで仕方ないのかな?しかし、根本として人間はどう生きるべきか、生きるとは何かが解決されなければ、どこまで行っても法律を作り続け、厳罰化し続けることになるような気がする。法律ができるとそれを使って利益を得ようとする輩も必ず出てくるしね。こんないたちごっこみたいな世の中は、幼稚だと私には思える。
 どうするか?お察しのとおり坐禅しかない。