正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三十五

 岩波文庫80ページ「六神通(ろくじんづう)はたゞ阿笈摩教(あぎゅうまきょう)にいふ六神通にあらず。六といふは、前三々後三々(ぜんさんざんごさんざん)を六神通ハラ蜜といふ。」
 阿笈摩教というのは阿含経(あごんきょう)のことだそうだ。比較的古い経典とのこと。私は詳しいことは知らないので、興味のある方は調べてみてください。
 六神通は阿含経に書かれているようなものではない(どのように書かれているのか知らないけど)。六というのは、以前にも色々あった、これからも色々あるということで、水野氏は「日常の営み」と脚注されている。つまり、瞬間瞬間の積み重ねのことだと思う。このような日常の瞬間瞬間の積み重ねを「六神通ハラ蜜」というのである。
 神通力を得るとか言って、超能力者のようになることを、あるいは「自分は神通力を得た」とか標榜する人がいるけど、道元禅師は毎日の生活、日常の瞬間の積み重ねそのものが六神通だとおっしゃっている。
 毎日毎日、瞬間瞬間を「普通」に生きるというのは、物凄く難しい。私は坐禅がなければ、とてもこんな難しいことはできない。
 世の中でもてはやされたり、マスコミに取り上げられたり、他人の評価を重要視し過ぎではないかな。承認欲求とか、格好いい言葉を使ったりするけど、自分が生きることが、他人の評価なんかで左右されちゃあ、逆に苦しくてしょうがないと思う。
 前にも書いたが、澤木興道氏は「自分が自分を自分で自分する」と言っておられる。自分の人生は自分で生きるしかない。他人の意見を参考にしたり、本を読むのも良い。しかし、自分がどうするかは自分で決めること。
自分がどう生きたら良いかの基準は自分の中にあるのであって、外側にはない。ないものを探し回って、苦しくなってしまっている人は多いような気がする。
 私は、過去、愚かなことをたくさんしてきた。その結果は自分の身に降りかかっている。正直つらいと思う時もある。しかし、それは自分の人生なのだから受け入れるしかない。受け入れて、このあと少しはましに生きていければいい。坐禅すればできると思っている。
 前三々後三々。人生何でもありだと思う。だから、坐禅が必要だと思っている。