正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三十七

 岩波文庫81~83ページは四祖と五祖にまつわること(伝説?)が書かれている。
 私なりの概略を書いてみる。
  菩提達磨を中国(震旦)の初祖として、五祖となる大満弘忍(だいまんこうにん)禅師は、子どもの頃にして道を得ていたが、松の木を植える職人として生活していた。そこに四祖大医道信(だいいどうしん)禅師が通りかかり、四祖は松の木を植えていた後の五祖に「お前に法を伝えようと思うが、お前は歳をとりすぎている。もし生まれ変わって来るなら待っていよう」とおっしゃった。
五祖は承諾し、ある女性の胎内に宿り生まれ変わった。生まれたけれど、クリークに捨てられてしまった。ところが、七日間無傷で無事だったので、拾い上げられて育てられた。そして七歳になったとき、再び四祖に出会った。ここで、二人の対話になる。
四祖「汝何姓(汝いかなる姓(しょう)ぞ)」
五祖「姓即有、不是常姓(姓はすなわち有り、これ常の姓にあらず)」
四祖「是何姓(これいかなる姓ぞ)」
五祖「是仏性(これ仏性)」
四祖「汝無仏性(汝に仏性なし)」
五祖「仏性空故、所以言無(仏性空なるゆえに、ゆえに無と言う)」
四祖は五祖の器量を認めて弟子とした。
 ここは四祖と五祖の対話が重要で、そのための前置きはどうでもよいと私は思っている。
 宗教の名のもとに怪しげなことを言う奴らは、前段の所を取り上げて、神秘性を強調したりすると思うが、繰り返し書いているように仏教、仏道は現実の中でどう生きるかを対象としていて、神秘性なんて関係ない。
 四祖や五祖が仏教、仏道を極めて深く体得し、後に伝えた偉大さを、一般の人々に伝える(布教)するときに便利だから作られた「物語」だと私は思っている。
 案外、ここは大事なところだと思う。宗教に神秘性などいらない。
 神秘というなら、坐禅しているときに感じることが神秘だ。
 西嶋氏が書いておられるように、宇宙という空間に太陽があって、生命が生きていられる距離で地球という小さな星が、太陽の回りをぐるぐる回っている。これこそ神秘だ。人間という生物がいて、心臓が動いて全身に血液を循環させている。食物を食べると消化され、血や肉になって、不要なものは排泄される、これが自然と行われている。これこそ神秘だ。
 妄想を神秘などと言ってはいけないと思う。
 四祖と五祖の会話についてはこのあと道元禅師が解説されているので、次回にするけど、「無」と「空」について、私の思うところを書いてみたい。
 「無」というと、無の境地とか、無心とか、どういうことかさっぱりわからないことが言われることが多い。しかし、現実は「無い」とか「有る」とかいう抽象的な概念ではなく、目の前に存在している事実。だから、「無」という言葉が使われていても「無い」ということではなく、「無い」とか「有る」を超越したもの=現実だと私は考えている。
 「空」は前にも書いたと思うけど、「実際には存在しない」なんて到底理解できないことではなく、現実そのもの、ありのままということだと考えている。以上は西嶋氏の提唱録に書かれていることで、私はそのとおりだと思う。少なくとも私には、それならば理解できる。
 だから「仏性空故、所以言無」を西嶋氏の解釈をもとに私なりに書けば、「仏性は現実そのものでありのままに存在するのだから、有るとか無いとか関係ないもの」ということだと思っている。
 仏教において「無」「空」についての言葉遊びにしてはいけないと思っている。