正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性そのニ十六

 岩波文庫78ページ「時節いたらざれば、参師問法するにも、辦道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼見取(いんもけんしゅ)して、いたづらに紅塵(こうじん)にかへり、むなしく雲漢(うんかん)をまぼる。かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道(てんねんげどう)の流類(るるい)なり」
 その時が来ていないなら、師を尋ね教えについて質問しても、坐禅等修行しても仏性は現れない。このように考えて、無駄に世俗の生活に戻り、ぼんやりと天の川(雲漢)を眺めている。このような人々はおそらく、仏教以外の考え方の流派の人々であろう。
 前回に引き続き、時節について解説されている。
 時節が至らなければ、仏性は現れないと考えるのは間違いだ、とおっしゃっている。重要なことだから繰り返し繰り返しおっしゃっている。大事なことは、繰り返し言う必要があるという記述が、正法眼蔵随聞記にあったと思う。
 人が生きるのは、今この瞬間であって、そのうちに上手くいくだろうという暢気なものではない。私は、性格的に色々気になる(気にしすぎる)ので、そのうち上手くいくと単純に言われると、非常にいらいらする。
 この瞬間の現実、事実をしっかりと見て、「今は行動すべきではない」「条件、環境が整ったら行動しよう」というのなら理解できる。
 西嶋氏が書いておられるように、正法眼蔵四諦論を軸に、この現実の世界のこの瞬間をいかに生きるかを説かれた宗教書、布教のための書物だと思っている。
 何だか妙に哲学的に扱う人もいるようだが、私はそれではいけないと思っている。
 実際、会社の経営、国家の運営、個人の生活、すべて一瞬一瞬の積み重ねであって、一瞬の間違いが下手をすれば命取りになる。
 私は坐禅にすがって、何とかおかしなことをしないよう、私なりに努めているつもり。過去において、色々おかしなことをしてしまったが、それは今のこの瞬間に受け入れ、何とか対処するように生きるしかない。過去行ったことが原因で現在に結果として現れているけれども、一方で今この瞬間しか生きれないのだから、過去は断ち切られているとも言える。
 そうして生きて行くしかない。
 誰だって簡単には生きられない。それは坐禅していても同じこと。ただ、坐禅することによって、方向は間違えないと思っている。