正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その一

 前回も書いたが、私は仏教とは徹底的に楽観的というか、性善説というか、人間は本来、「仏」であるという考え方だと思っている。
 それが、色々頭の中であれこれ妄想し、酒や博打や薬や色事などの習慣に染まり、あるいは出世とか承認欲求とか世の中からの評価に左右され「仏」から離れていく。だから、坐禅して本来の面目に戻る。身心脱落する必要がある。そして、この世の中、世界の事実を体得する必要がある。
 仏性の巻は、まさにそのことが書いてあると思っている。
 岩波文庫72ページ「釈迦牟尼仏言(しゃかむにぶつごん)、「一切衆生(いっさいしゅじょう)」、悉有仏性(しつうぶっしょう)、如来常住(にょらいじょうじゅう)、無有変易(むうへんやく)」
 私は漢文は得意ではないが、書き下し文だと「釈迦牟尼仏のたまわく、一切の衆生にはことごとく仏性あり。如来は常に住し、変易することなし」とでもなるのだろうか。
 話は横道にそれるが、東京帝国大学経済学部を出て、実業家であり、また直木賞作家であった邱永漢(きゅうえいかん)は、漢文は中国人に教わったという。その中国人の教師が「日本人というのは不思議な民族だ。中国語の順番をひっくり返して、それも一二三とか上中下まで使って読んでいる。そうして、おおよそ間違っていない」というような趣旨のことを言っていたという。
 当たり前だが、中国語は書いてある順番に上から下へ読むに決まっている。
 道元禅師の上記の文章の解説は、私は非常に驚いたし、感心した。読み下しにすることで、仏教の本質から離れてしまうのではないか、とも思った。
 具体的には次回から書いていきたい。