正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二

 私は仏教とは「普通」に生きることを目指すものだと思っている。難しいのは「普通」とは何かということ。「仏(ぶつ)」というと艱難辛苦の修行に耐えて、ようやく到達する、すごい存在のようにとらえられがちだが、そんなことはないと考えている。
 勿論、修行は必要だが、それは毎日坐禅すること、正法眼蔵を読むことだと思っている。
 世の中がどうなっているか、身心で受け止め、それに対して、普通に対処していく。だから、目立つこともない。華々しい言動には、基本的にならない。
 理想論、主義主張を声高に唱えることもない。現実をよく見る、身心でとらえる。だから、見方によっては、冷めた態度、ニヒルにも見えるだろうと思う。
 仏性の巻は、この「仏」を説いた巻。道元禅師は、前回引用したことは、代々受け継がれてきた考え方、見方だとされている。
 岩波文庫73ページ「世尊道(せそんどう)の一切衆生悉有仏性は、その宗旨(そうし)いかん」釈尊がおっしゃった一切衆生悉有仏性という考え方は、どういったものか。
 「是什麼物恁麼来(ぜしもぶついんもらい)の道転法輪(どうてんぽうりん)なり」什麼物とは言葉でこういうものとは言えないけれども、しかし現実というものは存在していることは間違いない、それで「なにものか」と表現するしかない。言葉では言い表せないそれが什麼物。恁麼も言葉では言い表せないことを指す。つまり言葉では言い表せない何物かが存在するということになる。「一切衆生悉有仏性」というのは、言葉では言い表せない何物かが存在するということをおっしゃったということ。
 衆生ということにのは、有情(うじょう)と言ったり、群生(ぐんじょう)と言ったり、群類(ぐんるい)、群有(ぐんう)ともいう。結局、すべての存在。人間に限らない。
 「すなはち悉有は仏性なり」この世のすべてのもの=仏性(仏としての性質、真実)
 言葉では言い表せない何ものかが存在し、存在全てが仏性だということ。一切衆生=悉有=仏性。
 ここを読んだとき、すっきり、すかっとした気持ちになった。仏性が有るという表現は、私には具体的にどのようなことなのかはわからないけど、道元禅師の解説は明快そのもの。そもそも全てが仏性なのだ。
 そして漢文は上から下へ読むのだと思った。