正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十五

 岩波文庫108ページ「大潙山大円(だいゐさんだいゑん)禅師、あるとき衆(しゅ)にしめしていはく、「一切衆生無仏性(いっさいしゅじょうむぶっしょう)」。これをきく人天(にんでん)、よろこぶ大機(だいき)あり、驚疑(きょうぎ)のたぐひなきにあらず。釈尊説道(せつどう)は「一切衆生悉有仏性」なり。大潙の説道は「一切衆生無仏性」なり。有無の言理(ごんり)、はるかにことなるべし、道得(どうて)の当不(とうふ)、うたがひぬべし」
 大潙山大円禅師(潙山霊祐禅師)が、あるとき説法しておっしゃった「一切衆生無仏性」。これを聞いた人間界、天上界の者たちの中に、喜ぶ者たちもいたし、驚き疑う者たちもいた。釈尊がおっしゃったのは「一切衆生悉有仏性」である。大潙の言ったことは「一切衆生無仏性」である。有ると無いでは言っていることが全く異なっている。言っていることが適切なのか、そうでないのか疑うのが当然だ。
 今度は一転して「一切衆生無仏性」となる。
 この後、道元禅師が解説をされる。結局のところ、有るとか無いとかは頭の中のことで、現実に生きていく中では有る無しなど問題にしている暇はない、超越しているということだと思っている。詳しくは以降に書くことになる。
 人間、頭の中では何とでも考えられるし、何とでも言える。おっかないのは一つの立場に固執して意固地になることだと思う。世の中、偉い人ほどそうなりがちですよね。
 色々な立場、視点から考えなきゃいけない、というより、世の中、複雑怪奇なのだから、一つの立場だけで考えたら駄目に決まっていると思っています。けれど、「この道一筋」なんていう言葉が日本人は大好きですよね。
 大宇宙の真理は一つだけど、人間が現実の世界を見るとき、たった一つの立場だけでは不完全に決まっている。なのに、その立場だけで、ぎゃあぎゃあ言うから喧嘩になる。真理から遠のく。
 坐禅しませんかねぇ。