正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十八

 岩波文庫109ページ「いま大潙道(だいいどう)の理致(りち)は、「一切衆生無仏性」を理致とせり。いまだ曠然縄墨外(こうぜんじょうぼくげ)といはず。自家屋裏(じけおくり)の経典(きょうでん)、かくのごとくの受持(じゅじ)あり」
 潙山霊祐禅師の仏教・仏道の理解は「一切衆生無仏性」に至っている、そのように主張されている。色々な決まりごと(と言われているもの)に捕らわれず、その外側の広々としたものであるとは言わないが、そもそも仏性=衆生なのだから、その教えはもともと各々に備わっている(自家屋裏の経典を受持している)のである。
 要は、有るとか無いとか頭の中でごちゃごちゃ考えるまでもないということだと思っている。言葉では有仏性とも言えるし、無仏性とも言える。しかし、大宇宙の真理から見れば、無仏性、仏性が有るなどと言うまでもない、というのが真実である。そう考えている。
 アメリカで差別の事件をきっかけにデモが起こり(暴動は収まってきたようだけど)、今度はヨーロッパでデモが始まったという。差別はいけない。ただ、私は、どういう人がデモをしているのか知りたいとは思う。日頃差別を受けている人たちなのだろうか?ヨーロッパって自由・平等を謳ってきたけど、実態は違うのね、まあそうだろうな、とは思う。
 また、デモに参加している人って何の仕事をしているのだろう?差別されて仕事が無い人なのかな?そういう運動家の組織があって収入があるのかな?
 銅像引き倒して川に投げ込んでも意味ないと思ってしまうけど。
 本来、人間は差別などできないものだ。けれど坐禅しなければそうはならない。
 現実には、差別による経済格差や富の極端な集中というような経済問題から手をつけるのかなあ、なんて思う。
 国益、人種、宗教様々な中で、頭の中で考えた観念論では、どうにもならないんじゃないですかねぇ。
 坐禅が広まることを期待するけど、その前は仕方がないから、徹底的に現実を見極めた具体的行動をしないと駄目なんじゃないか。デモで意思を表して、あとは政治が何とかしろ、というのは、ほんとにそうなのかな?とは思ってしまう。
 まあ人間自由だから何をしてもいいです。デモを否定しているのではないから、怒らないでね。