正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十七

 岩波文庫108、109ページ「いま大潙(だいい)はしかあらず、一条拄杖呑両人(いちじょうしゅじょうたんりょうにん)なるべし。いはんや国師は馬祖の子なり、大潙は馬祖の孫(そん)なり。しかあれども、法孫(ほっそん)は師翁(すおう)の道(どう)に老大(ろうだい)なり、法子(ほっし)は、師父の道に年少なり」
 大潙山大円禅師(潙山霊祐禅師)は、(斉安禅師)と同じようではなく、一本の拄杖が二人を飲み込んでいるというところにいる。斉安国師は、馬祖道一禅師の直接の後継者(弟子、子)であり、潙山霊祐禅師は馬祖道一禅師の孫弟子にあたる。しかし、孫弟子は馬祖道一禅師の教えの理解については深く広いと言える、斉安国師はその点では不十分である。
 潙山霊祐禅師は、大宇宙の真理と一体となっている。一切衆生=悉有=仏性という「言葉」のレベルを超えて現実そのものをとらえている。そういうことだと思っている。
 一条拄杖(一本の杖)というのは、大宇宙そのものを象徴するものとして使われているのだと思う。一切の存在は大宇宙そのものなのだから。その一条拄杖に呑み込まれている=一体となっている。
 斉安国師の「担いでいる」だと、大宇宙の真理と担いでいる人と分離していることになってしまう。
 WHOを脱退するとかしないとか、コロナを巡って中国を批判するとかしないとか、G7にどの国を招くとか招かないとか、色々あるけど、結局は各国の国益、そして政治のトップの思惑に見える。為政者は、その支持者たちの利益を守れなければ失脚してしまう。
 これはこれで事実だから、今すぐどうこうなるものではない。けれど、人類はそんなレベルでずっといるのではいけないと思うし、ほんの少しずつでも大宇宙の真理に近づいていかないと、まずいと思う。人類への希望と悲観が入り交じるところです。
 坐禅しませんかねぇ。