正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その三

 オリンピックのマラソンコースをどうするこうするで大騒ぎでしたな。興味ないので、結局どうなったか知らないけど。
 そもそもスポーツって何なんですかね。人間というのはスポーツをしたがる、せずにはいられないもののようだ。でも、何故国が助成するのだろう?どのような国益があるのかな?国益なくして、国家が助成などしないだろう。スポンサー企業の利益とかも絡んでいるんですかね。
 なんたら協会がおかしいとか言って喧嘩していたり、パワハラだなんだとか揉めていたり、アメリカの放映権料が入らないとオリンピックが運営できないとか、まあレベルの低いことよ、と思うけど、これが現実。何とかならないんですかね?
 スポーツをして、きちんとした人間になる人もいれば、下らない奴もいる。スポーツしなくて、きちんとした人もいれば、下らない奴もいる。問題はスポーツする、しないではなく、日頃の行動、心掛け次第、坐禅しているかにかかっている。
 岩波文庫73ページ「正当恁麼時(しょうとういんもじ)は、衆生の内外(ないげ)すなはち仏性の悉有なり。単伝(たんでん)する皮肉骨髄(ひにくこつずい)のみにあらず、汝得吾皮肉骨髄(にょとくごひにくこつずい)なるがゆゑに。」まさに現在のこの瞬間においては(なにと言葉では言い表せないけれど実在しているこの瞬間においては)、すべての存在の内も外もすべてひっくるめて仏性=悉有である。
 釈尊以来の「仏」と言われている人々が、釈尊と同じ皮、肉、骨、髄、要は釈尊と同じ存在であるということにとどまらない。すべての存在が、釈尊から「お前は私のすべてを得た(汝得吾皮肉骨髄)」と言われる存在なのだ。
 世の中の人達が、自分の存在を上に書いたような身心になって、今の世の中を見渡せるようにならないもんかなと思うけど、無理だろうなあ。