正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十六

 岩波文庫124ページ「「動ずるはいかゞせん」といふは、動ずればさらに仏性一枚をかさぬべしと道取するか、動ずれば仏性にあらざらんと道著(どうじゃ)するか」
 「現に動いているではないか、これをどう考えるのか」というのは、動いているならば、仏性をその動いているものの上に重ねて仏性が有るというのか、動いているならば仏性ではないといのか。
 目の前の現実、事実も人によっていかようにも見える。「妄想」と言ったら怒る人がほとんどだろうが、自らの思惑、利得、思想に囚われて色んなことを言っているように見えて仕方がない。誰がどう見たって「そうじゃないだろう」ということを頑として受け入れない人たちがいる。そしてそれは珍しいことではない。
 私の身の回りにもいるし、世界情勢を見てもたくさんあると思う。私自身、そうならないために坐禅しているつもりだけれど、「おんなじだ」と言う人もいるかもしれない。
 仏性=一切衆生=悉有であり、二つに切れたみみずが動いているという事実について頭の中で観念的にこねくり回してはいけないということだと思う。
 現実、事実を頭の中でこねくり回してはいけないが、もっと怖いのは利得に囚われて、頭の中の観念を正しいと信じ込む、あるいは正しいと無理矢理押し通す(権力を持っていると特に)ことだ。米中の諍いだって、詰まる所「国益」にしか見えない。もっともらしい理屈はつけているけど。
 今の人類のレベルはその程度というしかないのだろう。それが現実なので、それに対処していくしかない。これに対して観念的に「よろしくない」と叫んでいたって仕方がない。よろしくないとは思うが、目の前の現実に対処しつつ、「良い世界」に向けて瞬間瞬間、地味に一つ一つ行動を積み上げていくしかない。そしてそれは、一人一人の日常の普通の当たり前の行動の積み重ねでしか実現しないと思っている。
 そのためには坐禅が必要です。