正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その七十七

 岩波文庫95ページ「「汝欲見仏性、先須除我慢(にょよくけんぶっしょう、せんしゅじょがまん)」。この為説の宗旨(そうし)、すごさず辦肯(はんけん)すべし。「見」はなきにあらず、その「見」これ「徐我慢なり」
 仏性を理解したい、身に現したいと思うならば、我慢を除け、ということについて道元禅師が解説をされる。
 この龍樹尊者がなさった説法の核心について、軽く考えることなく、よく理解しようとしなければならない。仏性を理解する、現すことはできる(ない、ということはない)、その場合には、我慢をとりのぞかねばならない。
 我慢の慢は、傲慢、高慢、慢心の慢だ。つまり、自分はすごい、偉いと思い込むことが「我慢」なのだ。
 仏性=悉有=一切衆生なのだから、本来、人は仏性そのものなのだけれど、「我慢」の状態になると、本来の自分を見失ってしまう。
 これは世の中では珍しくない。むしろ、「我慢」の状態になってしまっている人の方が多いのではないかと感じる。
 「自分は!」「自負が!」って目をつり上げて主張している人が多くないだろうか?誰に認めてもらいたいのかな?本来の状態でない自分を主張し、仮に認められたとして、そのあと、どうするんですかね?
 自分は正しい、つまり大宇宙の真理に従っているというのは、極めて普通の感覚。普通の状態を他人に主張する必要はない。
 声高に自分が!自分が!と主張しているのは、やはりどこか間違っている、普通ではない=異常と私には感じられる。人間とは何かを見失って、頭の中の観念に振り回されているとしか思えない。
 坐禅して、自分自身が仏性であると理解し、実現したらいいのになぁ、と思います。