正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その七十五

 岩波文庫92ページ「もろもろの二乗の小見および経論師(きょうろんじ)の三蔵等は、この六祖の道(どう)を驚疑怖畏(きょうぎふい)すべし。もし驚疑せんことは、魔外(まげ)の類なり」
 頭の中であれこれ考えたり、感覚によって仏教を学ぼうとする狭い見方の人たちや経典を読んで仏教を学び論ずる人たちは、この六祖の言葉を聞いて驚き、疑い、怖れることになる。もし驚き、疑わないならば、まともではない人たち、仏教を信じない人たちである。
 無常=仏性であるということを繰り返し説かれてきたわけだが、ここでだめを押すということだろうか。無常=仏性を受け入れられない人たちは仏教徒ではない、と言っておられる。
 今コロナで大変なことになっている。目の前の現実を何とかしなければならない。
 未曾有の危機だとか、経済的損失はリーマンショックを上回るとか報道しているけれど、いつもの繰返しと私には思える。いつでも未曾有だし、いつでも過去の出来事より深刻だと報道しているように思えてならない。
 無常、常に変化しているのだから、必ず何か起こる。ひどい事態を回避する努力は続けなければいけないが、万全なんてあり得ない。
 未曾有だろうが、過去の出来事よりひどかろうが、目の前の現実をどうするかだけのことで、いちいち起こったことを大袈裟に言い立てて何の意味があるんだろう?
 今も瞬間瞬間色々なことが起こり、行われている。正しいことも、おかしなことも行われているのだろう。これも無常なんだろう。
 しかし、最後、結局のところは、自分自身がどうするかしかない。一人一人が自分はどうすべきか、きちんと考えることしか、解決することはない。どうするか?坐禅するしかない。