正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その六十八

 岩波文庫90、91ページ「六祖示門人行昌云、「無常者即仏性也、有常者即善悪一切諸法分別心也」いはゆる六祖道の無常は、外道二乗等の測度(しきたく)にあらず。二乗外道の鼻祖鼻末(びそびまつ)、それ無常なりといふとも、かれら窮尽(ぐうじん)すべからざるなり」
 六祖が門人の行昌という人に言った。「無常(常に変化、移り変わっていくこと)であることが仏性である。有常(変化なく常に同じ状態であること)は森羅万象を
善いとか悪いとか分別し、決めつける態度である」六祖がおっしゃっる無常は外道(仏教以外の思想)や二乗(声聞乗(しょうもんじょう)、縁覚乗(えんがくじょう))の人たちが推し量れるものではない。二乗外道の人たちは、無常だとかいうかもしれないが、彼らがその本質、核心に至ることはできない。
 無常という言葉は、学校で習ったが、諸行無常とか何か、この世は儚いというような虚しさや諦め、虚無感みたいな印象だった。
 けれど、本来仏教でいう無常というのは、ここにあるように、無常=仏性なのだ。悉有、一切衆生、この世のすべては常に変化するものだ、という真理を言っているのだ。変化することで、辛い悲しいこともあるけれど、変化するから希望が持てる。
 この世のものは、一方的に善いとか悪いとか決めつけられない。決めつけて変化を認めないなんて考えは、仏教ではない。あるいは仏教を聞いたり読んだり頭の中で理解しようとする人(声聞乗)、環境、感覚を通じて仏教を学ぶ人には到達できないものだと、ここでは説かれている。
 社会も常に変化している。自分自身の体も常に変化している。コロナでも毎日毎日状況は変わる。当たり前。その変化を人間が完全にコントロールできるはずがない。その瞬間にやれる限りのことをするだけだ。
 その中で、何が有効なのか、見つけて行くしかないだろうとしか思えない。色々つべこべいう人たちがいるけれど、「これしかない。これをしないといかん」とか、決めつけない方がいいと思うけどね。そんな簡単なものじゃないでしょう。
 国を始め行政は全力を尽くすのは当たり前。でも、国民一人一人が普通にまともに行動することも同様に大事だ。自分自身の行動がきちんとできることが社会の前提なのだから。
 この世は無常だ。だから、きちんと正しいことを積み重ねて行けば、善い方向に変わって行く。無常=仏性=悉有=一切衆生なのだから。きちんと正しいことを積み重ねるためには、坐禅しなければいけない。
 無常は、儚い、虚しい何て言うセンチメンタルなものではなく、現実は常に変化するという真実を言っている。状況が変わっているのに、立場とかプライドとかに捉えられ、現実が見えなくなることはしばしば見られることだ。これは危険だ。
 無常という真理を活かしてもらいたいと願っている。